アルケンへの求電子付加では、1,3-ブタジエンにプロトンが付いてできるアリルカチオンを、正電荷の位置が違う2つの共鳴構造で描きました。ラジカルハロゲン化のアリルラジカルも同じで、不対電子が両端の炭素に分かれた2つの構造で表しました。
では、なぜ正電荷や不対電子は両端の炭素に乗り、真ん中の炭素には乗らないのでしょうか。共鳴構造は「矢印で電子を動かすと、そう描ける」という答えを返しますが、その理由までは教えてくれません。
この記事では、フロンティア軌道論で見た分子軌道の考え方を、二重結合が連なった共役系に当てはめます。p軌道が3つ並んだアリル系では、真ん中の炭素に節が通る1本の軌道が、共鳴構造2枚と同じ結論を1枚の絵で示すことを確かめます。続いて、1,3-ブタジエンの中央の単結合が短くなる理由、共役が成り立つ条件を見て、最後に共鳴構造と分子軌道をどう使い分けるかを整理します。
アリルカチオン・アリルラジカル・アリルアニオン(まとめてアリル系と呼びます)では、CH2=CH–CH2の3つの炭素がどれもsp2混成で、それぞれに1つずつp軌道が残っています。塩化アリルのような化合物のCH2はsp3炭素なので、p軌道が3つ並ぶのは、この炭素が正電荷・不対電子・負電荷をもつときです。3つのp軌道は平行に並んでいるので、真ん中の炭素のp軌道は、左右どちらの隣のp軌道とも同じように重なれます1。
フロンティア軌道論で見たように、n個の原子軌道からはn本の分子軌道ができます。3個のp軌道からは、3本のπ分子軌道ができます(図1)。図の軌道の形とエネルギーは、π電子だけを取り出して扱う単純ヒュッケル法2で計算したものです。
図1の3本の軌道は、次のような性格を持っています。
ψ2のように、電子が入っても分子を結びつける力にほとんど寄与しない軌道を、非結合性軌道と呼びます3。
ペリ環状反応の1-2節では、炭素が奇数個の共役系では真ん中の軌道が非結合性になることを一言で済ませました。この記事では、この非結合性軌道ψ2が、アリル系の化学の多くを説明する主役になります。
単純ヒュッケル法は、電子どうしの反発を(原子核どうしの反発と打ち消し合うと仮定して)無視し、隣り合う原子の間の相互作用だけを残した、いちばん簡単な分子軌道法です2。軌道の形(節の位置・係数の大小)を読むには十分ですが、エネルギーの値そのものは近似値として扱ってください。
アリルカチオン・アリルラジカル・アリルアニオンは、どれも同じ3本のπ分子軌道を持っています。違うのは、そこに入っているπ電子の数だけです(図2)。
3つの化学種で電子の数が変わるのは、いつもψ2です。つまり、この3つの化学種の性格の違いは、ψ21本に電子がいくつ入るかで決まります。
アリルカチオンの正電荷は、両端の2つの炭素に分け持たれています4。共鳴構造では、正電荷が左端にある構造と右端にある構造の2枚で、このことを表しました(図3の上)。
分子軌道で見ると、これは1本の軌道で説明できます。アリルカチオンでは、もし電子があれば入るはずの軌道ψ2が空です。ψ2は両端の炭素にだけ広がり、真ん中の炭素の係数は0なので、ψ2が空いていることで生じる電子の不足(正電荷)は両端に分かれ、真ん中には生じません(図3の下)。置換基のないアリルカチオンを単純ヒュッケル法で数えると、両端の炭素の電荷はそれぞれ+1/2、真ん中の炭素は0になり、共鳴構造2枚を平均した姿とぴったり一致します。
アリルラジカルも同じです。不対電子はψ2に入っているので、単純ヒュッケル法の範囲では、両端の炭素に半分ずつ分かれ、真ん中の炭素には来ません。両端の炭素は不対電子を等しく分け持っています1。
この見方は、反応がどこで起こるかの説明にもそのまま使えます。フロンティア軌道論で見たように、求核剤は相手のLUMOの係数が大きい原子を攻撃します。アリルカチオンのLUMO(ψ2)は両端にしか広がっていないので、求核剤は両端のどちらかの炭素を攻撃すると考えられます。実際、1,3-ブタジエンにHBrを付加させると、臭化物イオンが両端のどちらかの炭素と結合し、1,2-付加体と1,4-付加体の両方ができます4。NBSによるアリル位の臭素化で臭素の付く位置が2通りになるのも(ラジカルハロゲン化5節)、アリルラジカルのSOMOが両端に広がっているためです。
単純ヒュッケル法では、ψ2は非結合性なので、そこに電子が0個・1個・2個のどれだけ入っても、π電子の非局在化による安定化の大きさは変わりません。ただしこれは、電子どうしの反発を無視した近似の中での話です。「アリルカチオン・ラジカル・アニオンは同じくらい安定」という意味ではありません。実際の安定性は、電子の反発や、溶媒・対イオンの効果でも変わります。
3つの原子にp軌道が並び、そこにπ電子が4個入った系は、アリルアニオンと同じ組み立てになっています。有機化学でよく出会うものに、次の3つがあります。
ただし、両端の原子が違う系(エノラートのO–C–C、アミドのN–C–O)では、軌道の形が左右対称になりません。電気陰性度の違う原子が並ぶと、軌道の係数の大小が偏るからです(フロンティア軌道論4節)。エノラートで「負電荷は主に酸素、HOMOの係数はα炭素の方が大きい」というずれが生じるのは、このためです。
1,3-ブタジエンでは4つの炭素にp軌道が並び、4本のπ分子軌道ができます。そのうち結合性の2本(ψ1・ψ2)に、4個のπ電子が入ります7。4本すべての形はペリ環状反応の図1にあるので、ここでは電子の入った2本だけを取り出し、中央のC2–C3の間で何が起きているかに注目します(図4)。
C2–C3の間では、ψ1の結合性の重なりとψ2の反結合性の重なりが打ち消し合いますが、完全には打ち消し合いません。ψ1のC2・C3の係数の方が、ψ2のC2・C3の係数より大きいからです(図4)。差し引きで、C2–C3の単結合には少しだけπ結合の性格が残り、反対にC1=C2とC3=C4の二重結合は、π結合の性格が少しだけ弱まります。単純ヒュッケル法で計算したπ結合次数は、C1–C2が0.89、C2–C3が0.45です(孤立した二重結合なら1と0)。
このように、π電子が2つの原子の間だけに閉じこもらず、π系全体に広がっていることを非局在化と呼びます。非局在化した系では、それぞれの結合が「中途半端な二重結合性」、つまり整数でない結合次数を持ちます8。
非局在化の証拠としてよく挙げられるのが、結合の長さです。気体の1,3-ブタジエンの結合の長さ(平衡構造)は、C1=C2が133.8 pm、C2–C3が145.4 pmと求められています9。同じ方法で求めたエチレンのC=Cは133.05 pmで9、ブタジエンの二重結合の方がわずかに長くなっています。
一方、ブタンのC2–C3のような普通の単結合は153 pmで、ブタジエンのC2–C3はそれより明らかに短い単結合です7。ただし、この差のすべてが共役によるものではありません。
ブタンの単結合はsp3炭素どうしの結合ですが、ブタジエンのC2–C3はsp2炭素どうしの結合です。sp2軌道はsp3軌道よりs性が大きく、電子が原子核に近いので、それだけで結合は短く強くなります7。
Craigらは、C2–C3と比べる基準として、共役していないsp2炭素どうしの単結合の長さに147.0 pmを用いました9。この値は、エタンとプロペンの単結合の長さの差から見積もったものです9。これと比べると、共役によって縮んだ分は約1.6 pmで、二重結合は約0.7 pm伸びています9。単結合の縮みは、二重結合の伸びのおよそ2倍です9。なお、教科書7はブタジエンのC2–C3を147 pmとしていますが、1 pm単位の比較には、測り方のそろったCraigらの平衡構造の値を使っています。ブタンと比べた約8 pmの差(測り方の違う値どうしの比較なので目安)の大部分はsp2混成によるもので、共役が直接効いている分は小さいことになります。
ブタジエンの中央の単結合が短いのは、①C2とC3がsp2炭素であることと、②共役(ψ1のC2–C3間の結合性の重なり)の2つが重なった結果です。大きいのは①の方で、②は小さいながらも、二重結合が伸び単結合が縮むという向きで、結合の長さに確かに現れています。
エネルギーの面でも、共役の効果は測れます。一置換のアルケン(1-ブテンなど)を水素化すると約126 kJ/molの熱が出るので、一置換の二重結合を2つ持つジエンなら、その2倍の約252 kJ/molが予想されます7。
二重結合どうしがCH2をはさんで離れている1,4-ペンタジエンの水素化熱は253 kJ/molで、予想どおりです7。ところが、二重結合が隣り合った1,3-ブタジエンでは236 kJ/molしか出ません7。1,3-ブタジエンは、予想より約16 kJ/mol安定になっているのです7。
この安定化にも、結合の長さと同じく、sp2炭素どうしの単結合を持つことの寄与が含まれています7。また、芳香族性とヒュッケル則で見たベンゼンの安定化と比べると、鎖状の共役による安定化はずっと小さなものです。
なお、C2–C3の単結合には少しπ結合の性格があるので、このまわりの回転は自由ではありません。いちばん安定なのは、2つの二重結合が反対を向いたs-trans形です。配座とエネルギーはディールス・アルダー反応の選択性の2-1節で扱っています。
共役系とは、もとの意味では、単結合と多重結合が交互に並んだ構造で表せる分子のことで、間にある単結合をはさんで、p軌道どうしが相互作用している状態を共役と呼びます10。非共有電子対の入ったp軌道との同じような相互作用(2-2節のエノラートやアミド)にも、この言葉が使われます10。この定義と、p軌道の重なり方から、共役が成り立つための条件が2つ見えてきます。
1,4-ペンタジエンでは、2つの二重結合の間にsp3炭素のCH2がはさまっています。sp3炭素にはp軌道が無いので、p軌道の列はここで途切れ、2つの二重結合はそれぞれ独立したπ結合のままです(図5)。3-2節で見た水素化熱が、二重結合2つ分の予想どおりになるのはこのためです。
p軌道どうしの重なりは、軸が平行のときにいちばん大きく、ねじれるほど小さくなり、直交すると0になります。共役した部分が平面に近い形をとりやすいのはこのためで、芳香族性で「平面であること」が前提条件になっていたのと同じ理由です。
2-2節のアミド結合が平面になるのも、窒素の非共有電子対の入った軌道とカルボニル基のπ軌道が平行にそろって重なるためです6。
共役するp軌道の数が増えると、π分子軌道の数も増え、軌道どうしのエネルギーの間隔が詰まっていきます。ペリ環状反応の図1で、エチレン→ブタジエン→ヘキサトリエンと並べると、HOMOとLUMOの間隔が狭くなっていくのが分かります。
分子軌道の計算からも、共役が長くなるほどHOMOとLUMOのエネルギー差が小さくなることが示されています11。この差が小さいほど、HOMOからLUMOへ電子を持ち上げるのに要る光のエネルギーは小さく、波長は長くなります11。共役の長い分子が長い波長の光を吸収するのは、このためです。
共鳴は、分子の電子の状態を、いくつかの書き方(共鳴構造)を混ぜ合わせたものとして表す考え方です12。共鳴という言葉は、非局在化という現象そのものを指すのにも使われます12。共鳴構造と分子軌道は、同じ非局在化を別の道具で描いているのであって、どちらかが正しく、どちらかが間違っているわけではありません。
共鳴構造の強みは、手早さです。巻き矢印で電子を動かすだけで、正電荷・負電荷・不対電子がどの原子に乗りうるかが、計算なしに分かります。大きな分子でも、ヘテロ原子を含む分子でも、紙と鉛筆ですぐに描けます。
分子軌道の強みは、位相・節・エネルギーを扱えることです。共鳴構造からは、次のようなことは読み取れません。
非局在化による安定化は、単結合と二重結合が決まった位置にある仮想的な構造と比べたときの安定化として定義されます8。3-2節の水素化熱の比較は、まさにこの比べ方をしています。
共鳴構造どうしを行き来していると考える。誘起効果と共鳴効果で見たとおり、共鳴構造はどれも架空の書き方で、実際の分子は1つです。分子軌道で描けば、アリルカチオンは「ψ1に2個の電子が入り、ψ2が空」という1つの状態として描けます。
アリル系の3つの炭素に、電荷が均等に分かれていると考える。単純ヒュッケル法では、電荷や不対電子が乗るのは両端の炭素だけで、真ん中の炭素には乗りません。ψ2の節が真ん中の炭素を通るからです。
非結合性軌道の電子は役に立たないと考える。ψ2に入った電子は結合の強さにはほとんど寄与しませんが、アリルアニオンではHOMOとして求電子剤と反応する電子そのものです。結合を強めないことと、反応に関わらないことは別です。
ブタジエンの中央の単結合が短いのは、すべて共役のおかげだと考える。3-1節で見たように、大部分はsp2混成によるもので、共役による縮みはその一部です。
Q1. アリルカチオンでは、正電荷が両端の炭素に分かれ、真ん中の炭素には乗りません。これを分子軌道の言葉で説明してください。
A1. アリルカチオンでは、π電子2個がψ1に入り、ψ2(LUMO)が空です。ψ2は両端の炭素にだけ広がり、真ん中の炭素には節が通る(係数が0)ので、ψ2が空いていることで生じる正電荷は両端の炭素に分かれ、真ん中には生じません。共鳴構造2枚を平均した姿と同じ結論です。
Q2. アリルカチオン・アリルラジカル・アリルアニオンで、電子の数が変わるのはどの軌道ですか。その軌道が非結合性であることから、単純ヒュッケル法の範囲で何が言えますか。
A2. どれもψ2です(電子が0個・1個・2個)。ψ2は非結合性でもとのp軌道と同じ高さにあるので、単純ヒュッケル法では、非局在化による安定化の大きさは3つとも同じになります。ただし電子どうしの反発を無視した近似の結論で、実際の安定性が同じという意味ではありません。
Q3. 1,3-ブタジエンのC2–C3単結合は、ブタンのC2–C3単結合より短くなっています。その理由を2つ挙げ、どちらの寄与が大きいかも答えてください。
A3. ①C2とC3がsp2炭素で、s性の大きい軌道どうしの結合であること、②共役によってψ1のC2–C3の間に結合性の重なりが生じ、少しπ結合の性格が加わること、の2つです。共役していないsp2炭素どうしの単結合の長さを見積もった研究によると、共役で縮んだ分は小さく、寄与が大きいのは①です。
Q4. 1,4-ペンタジエンの水素化熱は、二重結合2つ分の予想とほぼ同じですが、1,3-ブタジエンでは予想より小さくなります。なぜですか。
A4. 1,4-ペンタジエンでは2つの二重結合の間にsp3炭素(CH2)があり、そこにはp軌道が無いので、2つのπ結合は重なれず共役していません。1,3-ブタジエンでは4つのp軌道が隣り合って平行に並び、π電子が非局在化して安定になっているので、水素化で出る熱がその分だけ小さくなります。
共鳴構造で「両端に正電荷が分かれる」と描いていたことは、分子軌道では「真ん中の炭素に節が通るψ2が空いている」という1本の軌道の形として描けます。アリルカチオン・ラジカル・アニオンの違いはψ2に入る電子の数だけで、エノラート・カルボキシラート・アミドも同じ組み立ての仲間です。
ブタジエンでは、ψ1がC2–C3の間に結合性の重なりをつくり、中央の単結合に少しだけ二重結合の性格を与えます。その効果は結合の長さや水素化熱に現れますが、sp2混成の効果と重なっているので、大きさは控えめに見積もる必要があります。共鳴構造で電荷の位置を手早く読み、分子軌道で位相とエネルギーを確かめる——2つの道具を行き来できると、共役系の反応がずっと見通しやすくなります。