ベンゼンは骨格式で書くと二重結合を3つ持つ環ですが、ふつうのアルケンのようには振る舞いません。ふつうの条件で臭素を加えても付加は起こらず、触媒を使ってようやく水素が1つ置き換わる置換が起こります。このベンゼンに特有の性質をまとめて芳香族性と呼びます。
この記事では、まずベンゼンがどれだけ特別に安定なのかを実験値で確かめ、その理由をπ分子軌道から説明します。そこから導かれるのがヒュッケル則(4n+2則)です。最後に、窒素を含む環(ピリジンとピロール)に話を広げ、塩基性の大きな違いまで読み解きます。
シクロヘキサンの炭素はsp3で、正四面体角(109.5°)に近い結合角を好みます。平らな正六角形にすると内角が120°に広がるうえ、隣り合うC–H結合がすべて重なり形になるため、実際にはいす形に折れ曲がっています。
一方、ベンゼンの炭素はすべてsp2混成で、好む結合角はちょうど120°です。正六角形の内角も120°なので、ベンゼンにとって平面は無理のない形です。ひずみを我慢して平らになっているわけではありません。
「ベンゼンは本来ひずむはずの平面構造を、芳香族性の安定化で保っている」と説明されることがありますが、因果が逆です。平面であることは、各炭素のp軌道が環全体で平行にそろうための前提条件で、芳香族性の安定化はその上に成り立っています。平面をとると無理が生じる環がどうなるかは、3-1節で見ます。
では、ベンゼンの何が特別なのでしょうか。手がかりは3つあります。
1つ目は結合の長さです。単結合と二重結合が交互に並んでいるなら、典型的な単結合(約154 pm)と二重結合(約134 pm)のように、長さは2種類に分かれるはずです(二重結合にはさまれた単結合は少し短く、約147 pmです。共役の記事を参照)。ところが実際のベンゼンでは、6本の炭素–炭素結合がすべて約139 pmで、その中間にそろっています。
2つ目は水素化熱です(図1)。シクロヘキセンの二重結合1つを水素化すると、約120 kJ/molの熱が出ます1。二重結合が3つあれば約360 kJ/molの発熱が予想されますが、ベンゼンの実測値は約208 kJ/molにとどまります2。
差の約150 kJ/mol(36 kcal/mol)が、ベンゼンが「二重結合を3つ持つ環」より余分に安定な分で、共鳴エネルギーと呼ばれます。二重結合が共役している1,3-シクロヘキサジエンでも、予想(約240 kJ/mol)とのずれは約8 kJ/molしかありません。ベンゼンの安定化は桁が違うのです。
なお、この値は何を基準の構造に選ぶかで変わる経験的な見積もりです。絶対値よりも、「ふつうの共役とは桁違い」という大きさの感覚をつかんでおけば十分です。
3つ目は反応性です。二重結合に付加すると環の炭素がsp3になり、この安定化を丸ごと失ってしまいます。そのため求電子剤と反応するとき、ベンゼンは付加ではなく、芳香環を残したまま置換を起こします。この反応の詳しい機構はベンゼンの求電子置換反応の記事で扱いました。
IUPACは、環状に共役した分子が、局在化した仮想的な構造(ケクレ構造など)より非局在化によって著しく安定になっているとき、芳香族性を持つと定義しています。逆に、仮想的な構造より不安定になっている場合は反芳香族と呼びます3。
なぜ環状につながると特別に安定になるのかは、π電子の分子軌道を考えると見えてきます。n個の原子軌道からn個の分子軌道ができること、位相のそろった組み合わせほどエネルギーが低いことは、フロンティア軌道論の記事で見ました。
ベンゼンでは、6個の炭素のp軌道から6個のπ分子軌道ができます。ただし、エネルギーの段は6段ではなく4段です。いちばん下といちばん上は1つずつですが、その間の2段は、同じエネルギーの軌道が2つずつ組になっています。このような組を縮重した軌道と呼びます。
π分子軌道。右の六角形は環を真上から見た図で、各炭素のp軌道の上側のローブを円で表す。塗りと白抜きは位相の違い、円の大きさは係数の大きさを表し、薄い破線は節を示す。6個のπ電子は、結合性の3つの軌道にちょうど収まる。いちばん下の軌道は、6つのp軌道がすべて同じ位相で重なったもので、節が1つもありません。環のどこを見ても隣どうしが強め合うので、最も安定です。上の段ほど節が1本ずつ増え、いちばん上の軌道では、隣り合うp軌道の位相がすべて逆になっています。
6個のπ電子は、下から順に結合性の3つの軌道へ2個ずつ入り、反結合性の軌道は空のまま残ります。結合性の軌道がすべて埋まり、それ以外は空という閉殻の配置が、分子軌道から見たときに芳香族分子に共通する特徴です4。ヒュッケルは1931年に、この考え方でベンゼンの電子配置を扱いました5。
同じ計算をほかの大きさの環に当てはめると、ある規則性が見えてきます。フロストとムスリンが1953年に示した覚え方では、円に正多角形を頂点を下にして内接させると、頂点の高さがそのままπ分子軌道のエネルギーの段になります6。円の中心を通る水平線が、もとのp軌道のエネルギーにあたります。
π分子軌道(上ほど高エネルギー)。破線はもとのp軌道のエネルギーで、これより下が結合性、上が反結合性、線上が非結合性。どれも環全体が平面で共役していると仮定して電子を入れてある。どの環でも、いちばん下の段は軌道が1つだけで、その上は2つずつ組になっています(偶数員環では、いちばん上がまた1つになります)。電子はいちばん下の段に2個、その上の段に4個ずつ入るので、段がちょうど埋まる電子の数は2、6、10、14…となります。
シクロブタジエン(π電子4個)を正方形と仮定すると、2段目の組が円の中心の高さ、つまり非結合性の位置にあり、残った2個の電子が別々の軌道に1個ずつ入ってしまいます。埋まりきらない段が残る——これが次の節で見る反芳香族の不安定さの原因です(実際のシクロブタジエンは、正方形ではなく長方形にゆがんだ形をとるとされています)。
2節の結果をまとめたものがヒュッケル則です。IUPACの用語集では、平面(またはほぼ平面)の単環式の共役系が4n+2個(n=0, 1, 2…)のπ電子を持つとき、芳香族性を示すとされています7。この規則が成り立つのは、おおむねn=0〜5の範囲です。
4n+2は「2、6、10、14、18…」という数の並びを表しているだけです。分子の中にnに当たるものを探す必要はありません。ベンゼンの6個はn=1にあたります。
芳香族かどうかを判断するには、電子の数に加えて、次の3つの条件がそろっている必要があります。この判定がそのまま当てはまるのは単環式の系で、環がいくつも縮合した分子では当てはまらない場合があります。
条件がそろっていてπ電子が4n個(4、8、12…)の場合は、逆に局在化した構造より不安定になります。これが反芳香族です3,8。シクロブタジエンがその代表で、きわめて反応性が高く、ふつうの条件では取り出して保存することができません。
4n個の電子を持つ環のなかには、平面になるのを避けるものもあります。8員環のシクロオクタテトラエン(π電子8個)は平らにならず、桶のような形に折れ曲がっています。こうして二重結合どうしの共役を断ち、反芳香族になるのを免れているのです。このように条件を満たさず、ふつうのポリエンのように振る舞うものを非芳香族と呼びます。
単結合と二重結合が交互に並んだ単環式の炭化水素をアヌレン(アンヌレンとも表記されます)と呼び、環の炭素数を[ ]に入れて表します。ベンゼンは[6]アヌレンにあたります。
[10]アヌレンのπ電子は10個(n=2)なので、数だけ見ればヒュッケル則を満たします。ところが、芳香族性を示しません9。原因は形にあります(図4)。
二重結合をすべてcis形にして平面に並べると、正十角形の内角は144°になり、sp2炭素が好む120°から大きく外れます。trans形の二重結合を2つ含めれば角度は120°に近づけられますが、今度は環の内側を向いた2つの水素が同じ場所を取り合ってぶつかります。どちらの形でも平面を保てないため、p軌道がそろわず、芳香族にならないのです9。
逆に、邪魔をしている2つの水素をCH2の橋に置き換えた1,6-メタノ[10]アヌレンでは、10員環がほぼ平面になり、芳香族性を示すことが確かめられています9。電子の数が合っていても、平面にならなければ芳香族にはならないことをよく示す例です。
[18]アヌレン(π電子18個、n=4)は環が十分に大きく、内側を向く6つの水素を収めたまま、120°に近い角度でほぼ平面に並べます。こちらは芳香族性を示し、その証拠は5節で見る1H NMRにはっきり現れます10。
ヒュッケル則は、中性の炭化水素だけでなくイオンにも当てはまります。
シクロペンタジエンは二重結合を2つ持つ5員環ですが、環の中にsp3のCH2が1つあり、p軌道の並びがそこで途切れています。中性分子のままでは環を一周する共役系ではないので、芳香族ではありません。
このCH2から塩基でプロトンを1つ引き抜くと、炭素はsp2になり、残った非共有電子対がp軌道に入ります。すると5つの炭素すべてがp軌道を持ち、そこに6個のπ電子(二重結合2つ分の4個と、非共有電子対の2個)が入ることになります。シクロペンタジエニルアニオンは、ヒュッケル則を満たす芳香族のイオンです(図5)。
CH2がプロトンを失うと、5つの炭素すべてがp軌道を持つ環状の共役系になり、6個のπ電子を持つ芳香族のイオンになる。負電荷は5つの炭素に等しく広がっている。この安定化は、酸性度にはっきり現れます。シクロペンタジエンのC–HのpKaは、DMSO中で18.0と測定されています11。ふつうのアルカンのC–H(pKaはおよそ50と推定)と比べると、測定の溶媒がそろっていないので目安ですが、酸の強さ(Ka)にして30桁ほども強い酸です。酸性度と塩基性度の記事で見た「共役塩基が安定なほど、酸は強い」の典型例といえます。
同じ考え方で、7員環のシクロヘプタトリエンのCH2から形式的にヒドリドイオン(H−)を取り除いたトロピリウムイオンも、6個のπ電子を持つ芳香族のイオンです。塩として単離できるほど安定です12。反対に、シクロペンタジエンからH−を取り除いたシクロペンタジエニルカチオンはπ電子が4個で、反芳香族に分類されます7。
環をつくる原子に、2種類以上の元素を含む環状化合物をヘテロ環化合物(複素環化合物)と呼びます13。有機化学では、炭素の環の一部が窒素・酸素・硫黄などに置き換わったものを指すのがふつうです。ピリジンやピロールのような名前の決まり方と環の番号の付け方は、ヘテロ環の慣用名の記事で扱います。
芳香族性は炭化水素だけのものではありません。ヘテロ原子もp軌道を持ち、環の共役に加われるからです。核酸塩基(ピリミジンやプリンの骨格)、アミノ酸のトリプトファン(インドール環)など、生体で重要な分子にも芳香族ヘテロ環が数多く含まれています。
ここでは最も基本的な2つ、ベンゼンのCHを1つ窒素に置き換えたピリジンと、5員環のピロールを比べます(図6)。どちらもπ電子6個の芳香族ですが、窒素の非共有電子対の置き場所が違います。
π電子。ピリジンの窒素はp軌道に電子を1個出し、非共有電子対は環の面内のsp2混成軌道にあってπ系には加わらない。ピロールの窒素は非共有電子対そのものをp軌道に置き、2個の電子をπ系に出す。黒い点は電子を表す。ピリジンの窒素はsp2で、炭素と同じように環の面に垂直なp軌道を持ち、そこに電子を1個入れています。5つの炭素の5個と合わせて6個です。窒素の非共有電子対は、環の面内で外を向いたsp2混成軌道にあります。この軌道はp軌道と直交しているので、非共有電子対はπ系に加わりません。
ピロールでは事情が違います。4つの炭素からはπ電子が4個しか来ないので、6個にするには窒素から2個が必要です。そこで窒素は非共有電子対そのものをp軌道に置いて、環の共役に差し出しています。残る3本の結合(2本のC–NとN–H)は環の面内に並びます。
図5のシクロペンタジエニルアニオンと見比べると、ピロールはCH−をNHに置き換えた形で、π電子の数も配置も同じであることが分かります。酸素を含むフランや硫黄を含むチオフェンも同じ型で、ヘテロ原子が持つ2組の非共有電子対のうち1組をπ系に出して6個にしています。
非共有電子対の置き場所の違いは、塩基性にそのまま現れます。塩基の強さは、その共役酸のpKa(pKaH)で比べます。
| 塩基 | 非共有電子対の置き場所 | pKaH |
|---|---|---|
| エチルアミン | sp3混成軌道(窒素の上にとどまる) | 10.63 |
| ピリジン | sp2混成軌道(環の面内、π系の外) | 5.23 |
| ピロール | p軌道(芳香族のπ系の一部) | −3.8(炭素でプロトン化) |
ピリジンの非共有電子対はπ系の外にあるので、プロトンを受け取っても芳香族性は失われません。生じるピリジニウムイオンも、π電子6個の芳香族のままです。そのためピリジンは、窒素でふつうに塩基として働きます。
ただし、エチルアミンと比べるとpKaHは5.4小さくなります。pKaHは対数なので、これは共役酸のKaHが約25万倍大きい、つまり塩基としての強さが約30万分の1になることを意味します。非共有電子対がs性33 %のsp2混成軌道に入っていて、s性25 %のsp3混成軌道より原子核の近くに引きつけられているためです。酸性度と塩基性度の記事の「混成軌道のs性」の節で見た、s性の高い軌道の電子対ほど安定で差し出しにくい、という理屈と同じです。
ピロールは、ほとんど塩基性を示しません。窒素の非共有電子対は芳香族の6個のπ電子そのものなので、窒素にプロトンが付くとこの電子対がπ系から抜け、芳香族性が失われてしまいます。強い酸の中ではプロトン化されますが、付くのは窒素ではなく環の炭素(2位)で、その共役酸のpKaは−3.8です16。炭素に付いた場合も、その炭素がsp3になって環の共役が途切れるので、芳香族性はやはり失われます。
「ピロールは窒素を含むのだから、アミンのように塩基として働くはず」と考えるのは、よくある誤りです。ヘテロ原子の非共有電子対が芳香族のπ電子に数えられているかどうかを、まず確かめる習慣をつけると混乱しません。
水素化熱の測定は、どんな分子にでも使える方法ではありません。IUPACは、芳香族性を判定する方法として最も広く使われているのは、1H NMRスペクトルで反磁性の環電流による効果を観測することだとしています3。
芳香族の環を外部磁場の中に置くと、環を一周できるπ電子が環に沿って流れ、それが新しい磁場をつくります。この誘起磁場は、環の外側では外部磁場を強め、環の内側では弱める向きにはたらきます17。
ベンゼンの水素は環の外側にあるので、強められた磁場を感じ、ふつうのアルケンの水素より低磁場の約7.3 ppmに現れます。NMRスペクトルの記事で、芳香族のC–Hが6.5〜8.5 ppmと大きく低磁場に出ると書いた理由がこれです。
[18]アヌレンは環の内側にも水素を持つので、この効果を両側から確かめられます。低温で測定すると、外側の12個の水素は約9.3 ppm、内側の6個の水素は約−3 ppmに現れます10。内側の水素は、基準物質のTMS(0 ppm)よりもさらに高磁場に出ていて、環の中の磁場が弱められていることを直接示しています。
ここまでの内容を、判定の手順としてまとめておきます。
| 分類 | 条件 | この記事で扱った例 |
|---|---|---|
| 芳香族 | 環状・平面・一周する共役がそろい、π電子が4n+2個 | ベンゼン、[18]アヌレン、シクロペンタジエニルアニオン、トロピリウムイオン、ピリジン、ピロール |
| 反芳香族 | 環状・平面・一周する共役がそろい、π電子が4n個 | シクロブタジエン、シクロペンタジエニルカチオン |
| 非芳香族 | 上の条件のどれかを満たさない | シクロペンタジエン(sp3炭素で途切れる)、シクロオクタテトラエンと[10]アヌレン(平面にならない) |
Q1. ベンゼンが平面構造をとっているのは、芳香族性による安定化の「おかげ」ですか。
A1. いいえ。ベンゼンの炭素はsp2で120°の結合角を好み、正六角形の内角もちょうど120°なので、平面はもともと無理のない形です。平面であることはp軌道が平行にそろうための前提条件で、その上に芳香族性の安定化(水素化熱の比較で約150 kJ/mol)が加わっています。
Q2. シクロヘプタトリエン、トロピリウムイオン、シクロペンタジエニルカチオンを、芳香族・反芳香族・非芳香族に分類してください。
A2. シクロヘプタトリエンはsp3のCH2で共役が途切れているので非芳香族です。トロピリウムイオンは7つの炭素すべてがp軌道を持ち、π電子が6個なので芳香族です。シクロペンタジエニルカチオンは5つのp軌道にπ電子が4個なので反芳香族です。
Q3. [10]アヌレンはπ電子が10個あるのに、芳香族性を示さないのはなぜですか。
A3. 平面になれないためです。すべてcis形のまま平面に置くと内角が144°になって大きくひずみ、trans形の二重結合を2つ含む形では環の内側を向く2つの水素がぶつかります。p軌道が平行にそろわないので、電子の数が合っていても芳香族にはなりません。
Q4. ピリジンとピロールはどちらもπ電子6個の芳香族なのに、塩基性が大きく違うのはなぜですか。
A4. ピリジンの非共有電子対はπ系の外(面内のsp2混成軌道)にあり、プロトン化しても芳香族性が保たれるので塩基として働きます(pKaH 5.23)。ピロールの非共有電子対は芳香族のπ電子そのもので、窒素でプロトン化すると芳香族性が失われるため、ほとんど塩基性を示しません(pKaH −3.8。プロトンは炭素に付き、この場合も芳香族性は失われる)。
芳香族性は、単環式の系では環状・平面・途切れない共役・4n+2個のπ電子という4つの条件で判定できる、特別な安定化です。分子軌道で見れば、それは結合性の軌道がちょうど埋まる閉殻の配置であり、NMRでは環電流として目に見えます。ベンゼンの求電子置換反応の記事で見た「芳香族性をいったん手放し、すぐに取り戻す」反応の筋書きも、ここで見た安定化の大きさを知っていると、なぜそうなるのかが自然に理解できるはずです。
4n+2という数は、安定な分子だけでなく反応の遷移状態にも現れます。ディールス・アルダー反応のような協奏的な反応が加熱で進むかどうかも、遷移状態で環状に並んだ軌道が芳香族的かどうかで判定でき、これはペリ環状反応の記事で扱っています。