アルケンに臭素を加えると、二重結合が開いて臭素が2つとも付加します。ところがベンゼンに同じことをしても、ふつうは何も起こりません。触媒を加えてようやく反応しても、得られるのは付加物ではなく、環の水素が1つだけ置き換わった置換生成物です。
この記事では、なぜベンゼンが置換しか起こさないのかという点から出発して、芳香族求電子置換反応(Electrophilic Aromatic Substitution、略してEAS)の反応機構、フリーデル・クラフツ反応による炭素骨格の導入、そして置換基が次の反応位置を決める配向性までを順に見ていきます。
ベンゼンの6つの炭素はすべてsp2混成で、環は平面です。各炭素のp軌道が環全体で重なり合い、6個のπ電子はどの炭素にも偏らず非局在化しています。この電子配置が芳香族性であり、その安定化の大きさは水素化熱の比較から見積もると約150 kJ/mol(36 kcal/mol)にのぼります。
この「約150 kJ/mol」は、二重結合3つを持つ仮想的なシクロヘキサトリエンを基準に置いた経験的な見積もりです。何を基準の分子に選ぶかで数値は変わるため、絶対値そのものより「アルケン3つ分よりはるかに安定」という桁感を押さえておけば十分です。
ふつうのアルケンでは、π電子が求電子剤を攻撃して正電荷を持つ中間体(HBrならカルボカチオン、臭素ならブロモニウムイオン)を作り、そこに求核剤が結合して付加が完了します(アルケンへの求電子付加反応の記事を参照)。ベンゼンで同じ経路をたどると、求核剤が結合して付加が完了した時点で環の炭素が2つsp3のまま残り、芳香族性が失われてしまいます。せっかくの150 kJ/molを捨てることになるため、この道筋は割に合いません。
代わりにベンゼンが選ぶのが、いったん求電子剤を受け入れてから、環の水素をプロトンとして手放して芳香族性を取り戻すという経路です。差し引きで見れば水素が求電子剤に置き換わっただけで、芳香環はそのまま残ります。これが芳香族求電子置換反応(EAS)です。
芳香環のπ電子は非局在化しているぶん、ふつうのアルケンのπ電子より求核剤としては弱い相手です。そのためEASの相手になれるのは、カルボカチオンやニトロニウムイオンのように反応性がきわめて高い(多くはカチオン性の)求電子剤に限られます。単なるBr2では反応が始まらず、ルイス酸触媒が必要になるのはこのためです。
EASは2段階で進みます。第1段階では、ベンゼンのπ電子が求電子剤を攻撃して新しい結合を作ります。このとき攻撃された炭素はsp3になり、芳香族性はいったん壊れて、正電荷を持つ中間体ができます。
π電子がニトロニウムイオンを攻撃し、アレニウムイオン(σ錯体)が生じる。攻撃された炭素はsp3になり、芳香族性が失われる。第2段階では、sp3になった炭素に残っている水素が、溶媒や対アニオン(ニトロ化なら硫酸水素イオン)にプロトンとして引き抜かれます。このC-H結合の電子対が環に戻ることで、芳香族性が回復します。
C-H結合の電子対が環に戻り、芳香族性が回復してニトロベンゼンになる。求電子剤が結合した炭素から抜けるのは求電子剤ではなく水素である点に注意。第1段階で生じる中間体をアレニウムイオンと呼びます。σ錯体、あるいはウェランド中間体とも呼ばれますが、本記事では「アレニウムイオン」で統一します。この形の中間体は1928年にPfeifferとWizingerが臭素化について提案したもので、「ウェランド中間体」の名は、その後1942年に量子化学の立場から配向性を論じたWhelandにちなみます1,2。
アレニウムイオンの正電荷は、1か所に留まりません。sp3になった炭素を除く5つの炭素のうち、オルト位2か所とパラ位1か所の合わせて3か所に非局在化しています。共鳴構造で書くと次のようになります。
このアレニウムイオンは、紙の上だけの存在ではありません。1958年にDoeringらは、ヘキサメチルベンゼンを塩化メチルと塩化アルミニウムで処理して生じるヘプタメチルベンゼノニウムイオンを、1H NMRで観測できる形で取り出しました3。1968年にはBaenzigerとNelsonがそのテトラクロロアルミン酸塩のX線結晶構造を報告しており4、環の炭素のうち1つだけがsp3として環平面から外れた構造が実測されています。
2段階のうち、遅いのは第1段階(求電子剤の付加)です。芳香族性を壊す段階なので活性化エネルギーが大きく、逆に第2段階は芳香族性を取り戻す段階なので速く進みます。
この順序は実験で確かめられています。1950年にMelanderは、芳香環の水素を重水素やトリチウムに置き換えてニトロ化や臭素化の速度を比べ、速度がほとんど変わらないことを示しました5。C-H結合が切れる段階が律速なら、より重い同位体では明確に遅くなるはずです。差が出ないということは、C-H結合が切れる第2段階は律速ではない、という直接の証拠になります。
EASでは、どの求電子剤を使うかで導入される基が決まります。いずれも、そのままでは芳香環と反応できない分子を、酸やルイス酸で活性化して強い求電子剤に変えるという点が共通しています。
| 反応 | 試薬 | 求電子剤 | 導入される基 |
|---|---|---|---|
| ニトロ化 | HNO3 / H2SO4 | NO2+(ニトロニウムイオン) | -NO2 |
| 臭素化 | Br2 / FeBr3 | Br2-FeBr3 錯体 | -Br |
| スルホン化 | 発煙硫酸(SO3) | SO3 | -SO3H |
| アルキル化 | RCl / AlCl3 | R+(カルボカチオン) | -R |
| アシル化 | RCOCl / AlCl3 | RCO+(アシリウムイオン) | -COR |
この中で、実際に攻撃する化学種の正体が速度論から最もはっきり決まっているのがニトロ化です。1940年代から50年代にかけてHughes・Ingoldらは、ニトロメタンや酢酸中でのニトロ化が芳香族化合物の濃度に依存しない0次反応になる場合があることを見いだしました。これは「硝酸からニトロニウムイオンができる段階」が全体の速度を決めている、つまり芳香環を攻撃しているのはNO2+そのものだ、という決定的な証拠でした6。
ニトロ化やスルホン化がヘテロ原子を導入する反応であるのに対し、フリーデル・クラフツ反応は炭素骨格を芳香環につなぐための反応です。1877年、フリーデル(Charles Friedel)とクラフツ(James M. Crafts)が、塩化アミルに金属アルミニウムを作用させたときに塩化水素と炭化水素が思いがけず生じたことをきっかけに、塩化アルミニウムを使ってベンゼンなどに炭素鎖をつなぐ方法へと広げました7,8。
考え方はどちらも同じで、炭素を反応性の高い求電子剤(カルボカチオン、またはそれに準じる種)に変えてから芳香環に差し出すというものです。その変換を担うのがAlCl3のようなルイス酸です。
ハロゲン化アルキルにAlCl3を作用させると、塩素の非共有電子対がAlCl3の空の軌道に配位し、C-Cl結合が切れてカルボカチオンが生じます。第三級ハロゲン化アルキルのように安定なカルボカチオンを与える基質では、この過程が特にきれいに進みます。
AlCl3に配位し、tert-ブチルカチオンとAlCl4−が生じる。生じたカルボカチオンをベンゼンが攻撃してEASが進む。アルコールを酸性条件に置いてカルボカチオンを作る方法もあります。たとえばtert-ブチルアルコールを強酸で処理すると、水が脱離してtert-ブチルカチオンが生じます。これはアルコールが酸性条件でSN1反応を起こすときと同じ、プロトン化した水が脱離してカルボカチオンができる過程です。生じたカルボカチオンは、反応性の低い求核剤(芳香環)とも反応できるほど強い求電子剤です。
ただしアルキル化には、実用上やっかいな弱点が3つあります。
(1) 多置換が止まらない。アルキル基は電子供与性で環を活性化するため、1つ入った生成物は出発物のベンゼンより反応しやすくなります。結果として2置換、3置換へと進んでしまいます。これはフリーデルとクラフツ自身が最初の報告で気づいていたことで、ベンゼンと塩化メチルの反応から、トルエンだけでなく、キシレンやデュレンなど、メチル基がさらに多く入った生成物の混合物が得られたと記録されています7。
(2) カルボカチオンが転位する。1-クロロプロパンを使うと、プロピルベンゼンだけでなく、骨格が組み替わったイソプロピルベンゼン(クメン)が多く得られることがあります(生成比は温度などの条件で変わります)。第一級カチオン(あるいはAlCl3と錯体をつくった、それに近い状態)は不安定なので、環に捕まる前に1,2-水素移動でより安定な第二級カチオンに組み替わってしまうためです。
(3) 不活性化された環では進まない。ニトロベンゼンのように強い電子求引基がついた環は求核性が下がっているため、カルボカチオン程度の求電子剤では反応が進みません。そのため、ニトロ化とアルキル化を組み合わせる合成では順番が決定的に効いてきます。
アシル化では、酸塩化物(または酸無水物)にAlCl3を作用させてアシリウムイオンを作ります。このカチオンは、カルボカチオン形と、酸素の非共有電子対が炭素に流れ込んだオキソカルベニウム形の共鳴で表され、実際の姿はこの2つを混ぜた共鳴混成体です。
C-C-Oは直線的な配置をとる。酸素が電子を供給しているぶん、アシリウムイオンは単純なアルキルカチオンよりかなり安定です。単離した塩のX線構造解析でも、C-C-Oが直線的でC-O結合が短い(三重結合性を帯びた)構造が実測されており、赤外吸収も一酸化炭素に近い高波数に現れます9。
AlCl3存在下で反応させると、アセトフェノンが得られる。この安定性のおかげで、アシル化はアルキル化の弱点をきれいに回避します。
一方で、生成物のケトンの酸素がAlCl3に配位して錯体を作ってしまうため、アシル化ではAlCl3を触媒量ではなく1当量以上使う必要があります。「ルイス酸は触媒だから少量でよい」と考えて仕込むと反応が途中で止まります。
転位しない直鎖アルキル基を入れたいときは、まずアシル化で狙った骨格を導入し、あとからカルボニル基を還元してメチレンに変えるという2段構えが使われます。官能基相互変換(FGI)の典型例で、「直接入らないなら、入りやすい形で入れてから変える」という発想そのものです。
ベンゼンには6つの等価な水素しかないので、どこが置換されても同じ生成物になります。ところが置換基が1つ付いた芳香環では、残る5か所がオルト位2か所・メタ位2か所・パラ位1か所の3種類に分かれ、どこが置換されるかが問題になります。この偏りが配向性です。
配向性を決めているのは、もともと環に付いていた置換基です。置換基が電子を押し出すか引き込むかで、環の電子密度の分布が変わるためで、その分類自体は誘起効果と共鳴効果の記事で扱いました。ここでは同じ現象を、アレニウムイオンの側から見ていきます。
手がかりは2-1節の共鳴構造です。アレニウムイオンの正電荷は、攻撃された炭素から見てオルト位とパラ位に乗ります。ということは、もとから付いていた置換基がこの「正電荷が乗る炭素」の上に来られるかどうかで、中間体の安定性が変わるはずです。
トルエンのオルト位を攻撃した場合、3つの共鳴構造のうち1つで、正電荷がメチル基の付いた炭素そのものに乗ります。これは第三級カルボカチオンに相当し、アルキル基の電子供与によって特によく安定化された形です。パラ位を攻撃した場合も同じことが起こります。
ところがメタ位を攻撃すると、正電荷が乗る3か所はいずれもメチル基から外れた炭素になり、この「特に安定な形」が作れません。
結果として、オルト位とパラ位を経由する道筋のほうが中間体(と、それに至る遷移状態)が安定になり、メチル基はオルト・パラ配向性を示します。実際、トルエンのニトロ化でメタ体は数%しか生じません。Olahらは反応性の異なる何種類ものニトロ化剤でトルエンとアニソールを比べ、試薬の反応性を変えてもメタ体の割合が3%以下に留まり続けることを示しています10。
ニトロ基では事情が逆になります。ニトロ基の窒素は形式電荷+を帯びているため、そのすぐ隣の炭素に正電荷が乗る形は、正電荷どうしが隣り合う非常に不利な構造になります。オルト位・パラ位を攻撃すると、3つの共鳴構造のうち1つが必ずこの形になってしまいます。
メタ位を攻撃した場合だけ、正電荷が乗る3か所からニトロ基の炭素が外れます。「メタが特に良い」のではなく、オルト・パラがとりわけ悪いので、消去法でメタが残るという理解が正確です。ニトロ基は環全体を強く不活性化したうえで、メタ配向性を示します。
ハロゲンは、この2つのどちらとも違う振る舞いをします。塩素は電気陰性度が高く、誘起効果で環から電子を引き抜くため、クロロベンゼンはベンゼンより反応しにくくなります。それにもかかわらず、置換位置はオルト・パラに偏ります。
アレニウムイオンで見ると理由がはっきりします。オルト位・パラ位を攻撃した場合にかぎり、塩素の非共有電子対が隣の正電荷炭素に流れ込んでC=Cl+を作る、4つ目の共鳴構造が書けるのです。この形ではすべての原子が八隅子を満たしており、中間体を余分に安定化します。
1954年にRobertsらは同位体希釈法でハロベンゼンのニトロ化の異性体比を精密に決めており、25 °Cでのクロロベンゼンのニトロ化はオルト体29.6%・メタ体0.9%・パラ体69.5%という結果でした11。不活性化されていてもなお、メタ体は1%に届きません。
反応性(速いか遅いか)と配向性(どこに入るか)は別の軸です。ハロゲンは「不活性化基だがオルト・パラ配向」という、この2つが食い違う代表例です。反応性は支配的な誘起効果が決め、配向性は弱いながら働き続ける共鳴効果が決めています。
なお本記事では、配向性を「アレニウムイオンの安定性」で説明しました。これは中間体の安定性が遷移状態の安定性を反映しているという近似に基づく説明で、教科書で広く使われる標準的な議論です。ただし厳密には反応の速さを決めるのは遷移状態のエネルギーであり、ニトロ化のように求電子剤が非常に反応性の高い系では、単純な遷移状態の比較だけでは実測の異性体比を説明しきれないという報告もあります12。説明の枠組みとしての有効性と、厳密さの限界は分けて理解しておくとよいでしょう。
Q1. ベンゼンが付加ではなく置換を起こすのはなぜですか?
A1. 付加が完了すると環の炭素が2つsp3になり、非局在化したπ電子系(芳香族性)が失われるためです。求電子剤を受け入れたあと水素をプロトンとして手放せば、芳香族性を取り戻したまま新しい基を導入できるので、そちらの経路が選ばれます。
Q2. EASの律速段階が第1段階であることは、どのように確かめられていますか?
A2. 芳香環の水素を重水素やトリチウムに置き換えても反応速度がほとんど変わらないことが示されています。C-H結合が切れる第2段階が律速なら、重い同位体では明確に遅くなるはずなので、律速はそれより前の段階だと結論できます。
Q3. ハロゲンが環を不活性化するのに、オルト・パラ配向性を示すのはなぜですか?
A3. 反応性は、電気陰性度による強い誘起的な電子求引が決めるため不活性化します。一方で配向性は、オルト位・パラ位を攻撃したときにだけ書ける共鳴構造――ハロゲンの非共有電子対が正電荷を引き受ける形――が中間体を余分に安定化することで決まります。2つの効果が逆向きに働き、別々の性質を支配しているわけです。
EASは、「芳香族性という大きな安定化を一時的に手放し、すぐに取り戻す」という1つの筋書きで理解できる反応です。求電子剤の正体が変わっても筋書きは共通していて、違うのは求電子剤の作り方だけです。そして置換基がどこに次の基を導くかという配向性も、同じアレニウムイオンの共鳴構造を眺めるだけで見通せます。反応の種類ごとに丸暗記するのではなく、中間体のどこに正電荷が乗るかという一点に注目するのが、この分野を整理する近道です。