アルケンの炭素–炭素二重結合には、HBrやBr2、酸を触媒にしたときの水など、さまざまな分子が付加します。これらの反応では、電子を持っているアルケンの側が、電子を欲しがる相手(求電子剤)を攻撃するところから反応が始まります。このため、まとめて求電子付加反応と呼ばれます。
この記事では、臭素の付加を中心に、二重結合が求核剤として働く理由、ブロモニウムイオンという中間体、そこから決まる立体化学と位置選択性を順に見ていきます。最後に、二重結合が2つ連なった共役ジエンで起こる1,4-付加と、速度支配・熱力学支配の考え方を扱います。
二重結合は、σ結合1本とπ結合1本からできています。混成軌道の記事で見たとおり、π結合は2つのp軌道が横向きに重なったもので、電子は分子の面の上下に広がっています。
π電子は2つの原子核のあいだに強く束縛されたσ電子に比べて、エネルギーが高く、外から近づく相手にさらされています。フロンティア軌道論の記事の言葉で言えば、アルケンのHOMOはπ軌道であり、これが電子対を差し出す求核剤としての性質を生んでいます。
一方、臭素分子Br2そのものに極性はありません。しかしアルケンに端から近づくと、π電子に押されてBr–Br結合の電子が遠い側へ偏ります。アルケンのπ電子は、Br–Br結合の反結合性軌道σ*(LUMO)に入り込み、その結果Br–Br結合が切れます。
エチレンに臭素を加えると、1,2-ジブロモエタンができます。この反応は、図2のように2段階で進むと考えられています。
第1段階でできる、臭素が2つの炭素に橋をかけた三員環のカチオンをブロモニウムイオンと呼びます。形式電荷の+は臭素に付き、環の中のどの原子もオクテットを満たしています。ただし実際の正電荷は、臭素だけでなく2つの炭素にも分散しています(この分散の偏りが3節の位置選択性につながります)。1937年にRobertsとKimballが、臭素付加の立体化学(次の2節)を説明するためにこの中間体を提案しました1。
その後、実在の証拠も集まりました。1967年にOlahらは、超強酸中で安定なブロモニウムイオンを発生させ、NMRで観測しています2。1985年には、かさ高いアダマンチル基に囲まれた特殊なアルケンのブロモニウムイオンの結晶をX線で解析し、三員環の構造が確かめられました3。
第2段階では、臭化物イオンがC–Br+結合のちょうど裏側から炭素を攻撃します。臭素がつくる三員環が脱離基の役割を果たしており、SN2反応の背面攻撃とよく似た動きです。
すべての求電子剤が橋をかけられるわけではありません。HBrのプロトンには、臭素のような非共有電子対がないので、三員環をつくれません。この場合の中間体はふつうのカルボカチオンになり、その安定性から付加の向きが決まります(3節)。
臭素の付加でも、ベンゼン環のようにカルボカチオンを強く安定化する置換基が二重結合に付いていると、橋かけが弱まって開いたカチオンに近づき、次に述べる立体化学がきれいに出なくなることが知られています4。
ブロモニウムイオンの三員環は、二重結合の面の片側にしかありません。臭化物イオンはその反対側から攻撃するので、2つの臭素は必ず二重結合の面をはさんで反対側に付きます。このような付加をanti付加と呼びます。
違いがはっきり見えるのは環状のアルケンです。シクロヘキセンに臭素を付加させると、2つの臭素が環の反対の面に付いたtrans-1,2-ジブロモシクロヘキサンだけができ、cis体はできません。
IUPACの用語集は、この「シクロヘキセンの臭素化でtrans体だけができる」ことを、立体特異的(stereospecific)な反応の例として挙げています5。立体特異的とは、立体配置だけが異なる出発物から、それぞれ立体異性体の関係にある別々の生成物ができる反応のことです。RobertsとKimballが説明しようとしたのも、cis形のマレイン酸とtrans形のフマル酸が、臭素化でそれぞれ別の立体異性体を与えるという事実でした1。
できたtrans-1,2-ジブロモシクロヘキサンはキラルな分子で、2つのエナンチオマーがあります。臭化物イオンが三員環のどちらの炭素を攻撃するかは五分五分で、ブロモニウムイオンが環のどちらの面にできるかも五分五分です。したがって2つのエナンチオマーは同量ずつでき、生成物はラセミ体になります。
出発物もキラルでなく、キラルな試薬や触媒も使っていなければ、キラルな生成物ができても必ずラセミ体になります。立体特異的な反応でも、それは「どの立体異性体の組ができるか」が決まるという意味で、光学活性な生成物が得られるという意味ではありません。
非対称なアルケンにHBrを付加させると、水素は置換基の少ない側の炭素に、臭素は置換基の多い側の炭素に付きます。より安定なカルボカチオンを経由する向きに進むためで、Markovnikov則として知られています。この規則の中身は位置選択性の記事で詳しく扱いました。
では、橋かけのブロモニウムイオンを経る反応で、非対称なアルケンを使うとどうなるでしょうか。臭素を水の中で作用させると、水が大過剰にあるため、臭化物イオンより先に水が三員環を開きます。生成物は、臭素とOH基が隣り合った炭素に付いたブロモヒドリンです。
OH基は置換基の多い炭素に、臭素は末端の炭素に付く。ここで注目したいのは、水が立体的に込み合った側の炭素を攻撃している点です。SN2反応の感覚では、空いている末端の炭素を攻撃しそうに思えます。
非対称なブロモニウムイオンでは、2本のC–Br結合が同じ強さではありません。メチル基が2つ付いた炭素は正電荷をより多く引き受けることができるため、そちら側のC–Br結合が弱く、カルボカチオンに近い性格を帯びています。水はこの、正電荷を多く持つ炭素を攻撃します。
DaltonとDuttaは、さまざまなアルケンからのブロモヒドリン生成を調べました。そして、立体的な障害が大きすぎない限り付加の向きはMarkovnikov型になり、立体化学はanti付加であること、カルボカチオンで起こりがちな骨格の転位がほとんど見られないことを報告しています6。中間体は、アルケンの構造に応じて対称または非対称のブロモニウムイオンと考えるのが最もよい、というのが彼らの結論です。
置換基の多い炭素に求核剤が入るという結果は、HBrの付加と同じです。ただし中身は違います。HBrでは完全に開いたカルボカチオンができるのに対し、ブロモヒドリン生成では臭素の橋が残ったまま求核剤が入ります。そのためanti付加の立体化学が保たれ、転位もほとんど起こりません。
二重結合が単結合1本をはさんで2つ並んだ化合物を、共役ジエンと呼びます。最も簡単な1,3-ブタジエンにHBrを1当量付加させると、生成物が2種類できます。
プロトンは末端の炭素に付きます。そうすると、正電荷が残った炭素が二重結合と隣り合う、アリルカチオンができるからです。アリルカチオンの正電荷は、図5のように共鳴によって2つの炭素に分散しています(共鳴による安定化は誘起効果と共鳴効果の記事を参照)。正電荷が真ん中の炭素に乗らない理由は、分子軌道で見るとアリル系の空の軌道の形から説明できます。
HBr付加。末端の炭素にプロトンが付くと(矢印①②)、2つの共鳴構造で表されるアリルカチオンができる(矢印③)。臭化物イオンが内側の炭素に結合すれば3-ブロモ-1-ブテン(1,2-付加体)、反対の末端の炭素に結合すれば1-ブロモ-2-ブテン(1,4-付加体)になる。1,4-付加体には(E)体と(Z)体があり、図では(E)体を示した。ブタジエンの1番目と2番目の炭素にHとBrが付いたものを1,2-付加体、1番目と4番目の炭素に付いて、二重結合が真ん中へ移ったものを1,4-付加体と呼びます。この番号は付加した位置を表す呼び名で、生成物のIUPAC名の位置番号とは別物です。
臭素Br2を共役ジエンに付加させても、1,2-付加体と1,4-付加体の両方ができます。ただし臭素の場合は、アリルカチオンではなくブロモニウムイオンを経る可能性が議論されており7、説明が一段複雑になります。この記事では、中間体がはっきりしているHBrで話を進めます。
1,2-付加体と1,4-付加体の割合は、反応の条件によって入れ替わります。低い温度で反応させると1,2-付加体が主になり、温度を上げたり時間を長くとったりすると1,4-付加体が主になります。
1,2-付加のほうが速い理由は、次の2点で説明されます。1つは、置換基の多い内側の炭素のほうが正電荷を多く担っていることです。もう1つは、プロトンを渡したばかりの臭化物イオンが、まだ内側の炭素のすぐ近くにいることです。
後者については、Nordlanderらの実験があります。1,3-ペンタジエンに重水素化した塩化水素(DCl)を付加させると、できるアリルカチオンは両端がどちらも第二級の炭素になり、正電荷の偏りがほとんどなくなります。重水素を目印に生成物を調べたところ、それでも1,2-付加体のほうが多くできていました8。正電荷の偏りだけでは説明しきれず、対イオンが近くにいることも効いていることを示す結果です。
一方、生成物として安定なのは1,4-付加体です。1,4-付加体の二重結合は鎖の内側にあって炭素の置換基を2つ持ちますが、1,2-付加体の二重結合は末端にあって置換基が1つしかありません。置換基の多いアルケンほど安定である点は、位置選択性の記事のZaitsev則と同じ理由です。
温度を上げると、アリル位に臭素が付いた生成物(3-ブロモ-1-ブテンなど)のC–Br結合が再び切れて、アリルカチオンに戻れるようになります。この2つの臭化物が互いに移り変わること(アリル転位)は、1936年にWinsteinとYoungが報告しています9。行き来ができるようになれば、最終的な比率はできる速さではなく、生成物の安定性で決まります。
同じ構図は、生成物が中間体を経ずに逆反応で戻る場合にも現れます。ディールス・アルダー反応のエンド体とエキソ体の関係がその例で、ディールス・アルダー反応の選択性の記事で扱っています。
「低温では1,2-付加体、高温では1,4-付加体」を「温度でどちらの反応が起こるかが切り替わる」と読むのは誤りです。どちらの温度でも両方の経路は進んでいます。変わるのは、できた生成物がアリルカチオンへ戻れるかどうか、つまり比率を決めているのが速さなのか安定性なのか、という点です。
Q1. (E)-2-ブテンと(Z)-2-ブテンにそれぞれ臭素を付加させると、2,3-ジブロモブタンのどの立体異性体ができますか。
A1. (E)-2-ブテンからはメソ化合物の(2R,3S)-2,3-ジブロモブタンが、(Z)-2-ブテンからは(2R,3R)体と(2S,3S)体のラセミ体ができます。どちらもanti付加で進むため、出発物の二重結合の幾何(EかZか)が、生成物の立体配置の組み合わせにそのまま写し取られます。これが立体特異的ということの具体例です。
Q2. 2-メチルプロペンのブロモヒドリン生成で、水が立体的に込み合った第三級の炭素を攻撃するのはなぜですか。
A2. 非対称なブロモニウムイオンでは、メチル基が2つ付いた炭素のほうが正電荷を多く引き受けており、その炭素とのC–Br結合が弱くなっているからです。立体的な込み合いよりも、この電子的な偏りが攻撃の位置を決めています。ただし臭素の橋は残っているので、anti付加の立体化学は保たれます。
Q3. 1,3-ブタジエンに低温でHBrを付加させてから、混合物を温めておくと、生成物の比率はどう変わりますか。
A3. 1,4-付加体の割合が増えます。温めると、低温で多くできていた3-ブロモ-1-ブテンのC–Br結合が切れて、アリルカチオンに戻れるようになります。行き来を繰り返すうちに、より安定な1-ブロモ-2-ブテンがたまっていきます(速度支配から熱力学支配への移行)。
アルケンへの求電子付加は、「π電子が求電子剤を攻撃する」という1つの動きから始まります。その後の立体化学と位置選択性は、どんな中間体ができるか、つまり橋のかかったブロモニウムイオンなのか開いたカルボカチオンなのかで決まります。二重結合に酸素を付けるエポキシ化やジヒドロキシル化、二重結合そのものを切るオゾン分解など、アルケンの酸化反応は別の記事で扱っています。