不斉炭素を持つ分子は、鏡に映すと重ならない2つの形——エナンチオマー——を取ります。では、不斉炭素をいくつも持つ分子なら、光学異性体の数はそのぶん単純に増えていくのでしょうか。
実は、そう単純にはいきません。不斉炭素を持ちながら、分子全体としては自身の鏡像と重なってしまう分子が存在します。この記事では、エナンチオマーの基本から、フィッシャー投影という表現方法、そして「不斉炭素はあるのに光学活性を示さない」分子の正体まで、順を追って見ていきます。
4つの異なる置換基がついた炭素を不斉炭素と呼びます。不斉炭素の周りの構造は、右手と左手のように、鏡に映すと重ならない2つの形を取ります(判定の手順はR/S表記の決め方で詳しく扱っています)。
この、互いに鏡像の関係にあり、かつどう回転させても重ね合わせることができない一対の異性体を、エナンチオマー(鏡像異性体)と呼びます。
身近な例が乳酸(2-ヒドロキシプロパン酸)です。私たちの筋肉が嫌気的な解糖でつくるのはL-(+)-乳酸ですが、一部の乳酸菌は鏡像の関係にあるD-(−)-乳酸をつくります。どちらも分子式は同じC3H6O3で原子のつながり方もまったく同じですが、不斉炭素まわりの立体配置だけが逆になっています。
エナンチオマー同士は、融点・沸点・密度といった大部分の物理的性質が同じです(沸点や融点が何で決まるかは分子間力の記事で扱っています)。違いが表れるのは、偏光を回転させる向きと、酵素など他のキラルな分子との相互作用の仕方だけです。
エナンチオマーは、平面偏光(一方向にだけ振動しながら進む光)を通すと、互いに逆向きに回転させます。この性質を旋光性、回転させる能力を持つことを光学活性と呼びます。
回転の向きは、時計回りなら(+)、反時計回りなら(−)の符号で表します。ただし観測される回転角は溶液の濃度や測定管の長さでも変わるため、比較のためには濃度1 g/mL・管長1 dmでの値に規格化した比旋光度[α]という指標が使われます。
紛らわしい表記に注意してください。(+)/(−)と同じ意味で、古くは小文字のd/l(それぞれdextro・levoの略)も使われていましたが、IUPACはこの表記を使わないよう勧めており、現在は(+)/(−)を使うのが標準です。一方、大文字のD/Lは次の節で扱うフィッシャー投影にもとづく別の表記法で、旋光の向きとは無関係です。実際、天然のD-フルクトース(果糖)は左旋性(−)を示します。D-は配置を表すだけで、回転の向きを保証するものではありません。
エナンチオマーを区別するもう一つの方法がR/S表記です。CIP順位則にもとづいて不斉炭素についた4つの基に優先順位をつけ、最も低い基を奥に向けたときの残り3つをたどる向きで決まります(手順の詳細は先の記事を参照してください)。
乳酸の不斉炭素についているのはOH、COOH、CH3、Hの4つです。直接結合する原子の原子番号で比べると酸素を持つOHが最優先になり、残る2つの炭素基は、二重結合の酸素を重複カウントするとCOOHが(O,O,O)相当、CH3が(H,H,H)相当になるため、COOHのほうがCH3より優先順位が高くなります。優先順位はOH > COOH > CH3 > Hの順です。
Hが破線(奥)にあるとき、1→2→3の順にたどると反時計回りなので(S)体。したがって、筋肉でつくられるL-(+)-乳酸は(S)-乳酸、乳酸菌がつくるD-(−)-乳酸は(R)-乳酸ということになります。
R/S表記はCIP順位則という明確な手順にもとづくため、どんな分子にも機械的に適用できます。次に紹介するフィッシャー投影と、それにもとづくD/L表記は、見た目のパターンで判断する方法で、糖やアミノ酸のように似た構造が並ぶ分子群を直感的に比較しやすいという利点があります。
フィッシャー投影は、1891年にドイツの化学者Emil Fischerが糖の立体構造を表すために考案した表記法です。くさび形・破線とは異なる約束で立体を表します。
縦の結合は奥(紙の裏側)へ、横の結合は手前(紙の表側)へ向いていると約束します。炭素鎖は縦に置き、最も酸化度の高い基(乳酸ならCOOH)を上にするのが慣例です。
この約束があるため、フィッシャー投影を紙の上で90°回転させると、別の立体配置を表す図になってしまいます。紙面の上での180°の回転(紙を裏返すのではなく、紙の上で半回転させる操作)だけは同じ分子を表したままなので、フィッシャー投影同士を見比べるときは180°の回転にとどめてください。
図4左はL-(+)-乳酸のフィッシャー投影です。COOHを上、CH3を下に置き、OHを左、Hを右に描きます。
フィッシャー投影は、糖やアミノ酸のD/L表記の土台にもなっています。1906年にRosanoffが提案した約束では、基準分子であるグリセルアルデヒドのフィッシャー投影でOHが右にある方をD-グリセルアルデヒド、左にある方をL-グリセルアルデヒドと呼び、他の分子もこれと同じ配置を持つ方をD-系列、鏡像をL-系列と呼びます。乳酸の場合も同じ考え方で、上のOHが左にある(S)体はL-乳酸、右にある(R)体はD-乳酸に対応します。
OHの向きだけでD/Lが決まる。同じ発想を、複数の不斉炭素を持つ分子に拡張したのがグルコース(ブドウ糖)です。図4右のように、C2・C3・C4・C5の4つの不斉炭素それぞれにOHとHを振り分けます。天然に存在するグルコースのほとんどはD-グルコースです。
R/S表記はどの不斉炭素にも独立に適用できるのに対し、D/L表記は分子全体でひとつだけ決まる点に注意してください。糖では、不斉炭素が複数あっても、D/Lの判定はカルボニル基から最も遠い、1つの不斉炭素だけを見て行います。一方アミノ酸では、COOHの隣のα炭素の配置でD/Lを決めます(トレオニンのように2つ目の不斉炭素を持つものは、その配置をR/Sで表します)。
不斉炭素を2つ以上持つ分子では、エナンチオマーの関係にない立体異性体の組み合わせも生まれます。これをジアステレオマー(非鏡像異性体)と呼びます。
酒石酸(2,3-ジヒドロキシブタン二酸)で確認してみましょう。この分子には不斉炭素が2つあり、理論上は22=4通りの立体配置が考えられますが、実際に存在する異性体は3種類だけです。
(2R,3R)体と(2S,3S)体は互いに鏡像の関係にあるエナンチオマーで、天然の(+)-酒石酸はこの(2R,3R)体にあたります。
問題は3つ目の(2R,3S)体です。これは(2R,3R)体とも(2S,3S)体とも異なる立体異性体でありながら、そのどちらとも鏡像の関係にはありません。つまりこの2つは、ジアステレオマーの関係にあります。
さらに(2R,3S)体には、もう一つ特別な性質があります。分子の中央を通る鏡映面によって上半分と下半分がちょうど鏡像の関係になっており、分子全体としては自身の鏡像と重ね合わせることができてしまうのです。
不斉炭素を持ちながら分子全体としては自身の鏡像と重なるため、この(2R,3S)体は光学不活性です。このような分子をメソ化合物と呼びます。冒頭の問い——不斉炭素を持つ分子が必ず光学活性を示すとは限らない理由は、このように分子全体としては鏡像と重なる(キラルでない)ケースがあるからです。
メソ化合物が光学不活性になるのは、分子全体がキラルでない(自身の鏡像と重なる)ためです。古くはこれを、2つの不斉炭素がそれぞれ及ぼす旋光の効果が分子内で打ち消し合う「分子内補償」と説明していました。
メソ化合物としばしば混同されるのが、ラセミ体(ラセミ混合物)です。(2R,3R)体と(2S,3S)体を1:1で混ぜたものもやはり光学不活性になりますが、理由はまったく異なります。
メソ化合物は1つの分子の中で旋光が打ち消し合うのに対し、ラセミ体は逆向きに旋光する2種類の分子が集団として打ち消し合っているだけです。ラセミ体を構成する個々の分子は、依然としてそれぞれキラルです。
この違いを最初に見抜いたのがLouis Pasteurです。1848年、彼は酒石酸の工業副産物として得られる「ラセミ酸」のナトリウムアンモニウム塩の結晶を顕微鏡で観察し、互いに鏡像の関係にある2種類の結晶が混ざっていることを発見しました。ピンセットで結晶を1粒ずつ選り分けたところ、それぞれから天然の(+)-酒石酸と、それまで知られていなかった(−)-酒石酸を得ることに成功しています。
Q1. エナンチオマーとジアステレオマーの違いは何ですか?
A1. エナンチオマーは互いに鏡像の関係にあり、重ね合わせることができない一対の異性体です。ジアステレオマーは、立体異性体ではあるものの鏡像の関係にはない組み合わせを指します。
Q2. D-フルクトースが左旋性(−)を示すことは、何を意味していますか?
A2. D/L表記はフィッシャー投影上の相対配置を表すだけで、実際に光を回転させる向き((+)/(−))とは無関係だということです。
Q3. メソ化合物が不斉炭素を持ちながら光学不活性になるのはなぜですか?
A3. 分子内に鏡映面があり、分子全体としては自身の鏡像と重ね合わせることができる(キラルでない)からです。古くはこれを、2つの不斉炭素の旋光が分子内で打ち消し合う「分子内補償」と説明していました。
エナンチオマー・ジアステレオマー・メソ化合物の見分けは、頭の中だけで考えると混乱しやすいところです。R/S表記の決め方や、ラセミ化が起こる仕組みを扱ったSN1反応とSN2反応の違いもあわせて読むと、立体化学の全体像がつながりやすくなります。IUPAC命名ドリルで実際の分子を使って練習してみてください。