同じ出発物から、構造異性体の関係にある生成物が何種類も書けてしまうことがあります。そのうちどれが主生成物になるのかを言い当てる経験則として、Markovnikov則・Zaitsev則・Hofmann則の3つがよく登場します。
ところが、この3つをばらばらに覚えようとすると行き詰まります。Zaitsev則とHofmann則は正反対のことを主張していますし、条件によってどちらが顔を出すかが入れ替わるからです。この記事では、3つを「2通りの経路のうち、どちらの中間体・遷移状態が低いか」という1つの見方に並べ直します。
アルケンにHBrを作用させると、水素と臭素がどちらの炭素に付くかで2種類の生成物が考えられます。プロペンなら、2-ブロモプロパンと1-ブロモプロパンです。
HBrの付加で考えられる2つの生成物。どちらも「HとBrが二重結合の両端に1つずつ付く」という点では同じで、違うのは付く向きだけである。実際には2-ブロモプロパンがほぼ一方的に得られる。このように、結合の生成や切断が、可能な他の方向よりも一方に優先して起こることを位置選択性(regioselectivity)と呼びます1。もともとはアルケンへの非対称な試薬の付加に限って使われていた言葉で、現在は脱離反応や芳香環の置換反応にも広く使われます。
どちらの生成物が多くできるかを決めているのは、2つの経路それぞれの遷移状態の高さです。生成物そのものの安定性ではありません。ただし中間体を経る反応では、中間体が不安定なほど遷移状態はその中間体に似た構造になるため、中間体の安定性が遷移状態の高さの目安になります。
ここから先で出てくる3つの規則は、この「どちらの経路が低いか」という問いに対する答えを、反応の型ごとに言い換えたものです。規則そのものを丸暗記するより、何が中間体や遷移状態を安定化しているかを数える癖をつけるほうが、例外に出会ったときに強くなります。
まず3つを並べて、それぞれが何について何を言っているのかを確認します。
| 規則 | 対象の反応 | 主生成物 | 効いている要因 |
|---|---|---|---|
| Markovnikov則 | アルケンへのH-Xの付加 | 水素は、もともと水素の多い炭素に付く | カルボカチオン中間体の安定性 |
| Zaitsev則 | 脱離 | 置換基の多いアルケン | できかけているアルケンの安定性 |
| Hofmann則 | 脱離 | 置換基の少ないアルケン | 立体障害・β水素の酸性度 |
3つとも、反応機構という考え方が成立する前に、実験結果を整理するなかで提出された規則です。Markovnikovが異性体の酪酸を扱った論文のなかで付加の向きについて述べたのが1870年2、Zaitsevが脱離で得られるアルケンの傾向をまとめたのが1875年4、Hofmannが四級アンモニウム塩を加熱したときにエチレンが優先して出ることを報告したのが1851年です5。
いずれも経験則であり、例外があることが前提です。とくにZaitsev則とHofmann則は「どちらが正しいか」ではなく「どういう条件でどちらが顔を出すか」という関係にあります。
Markovnikov則は、もともと次の形で述べられました。ハロゲン化水素が非対称なアルケンに付加するとき、ハロゲンは水素の数が少ないほうの炭素に結合する。裏返せば、水素はもともと水素を多く持っている炭素に付く、ということです。
現在のIUPACの用語集では、これを極性分子一般に広げた形で定義しています。すなわち極性分子がアルケンやアルキンにヘテロリティックに付加するとき、電気陰性度の大きい(求核的な)ほうの原子が、水素の数の少ない炭素に結合するというものです3。
ここで大事なのは、同じ項目が機構の側からの言い換えも併記していることです。それは「電気的に陽性な(求電子的な)ほうの原子が、より安定なカルボカチオンを生じる側の末端に結合する」という言い方です3。規則の本体は、水素の数ではなくカチオンの安定性のほうにあります。
プロペンにプロトンが付く場面を考えると、付く位置によって2種類のカルボカチオンができます。
カルボカチオンの安定性は第三級 > 第二級 > 第一級の順で、これはSN1反応の記事でも律速段階を決める要因として出てきました。理由は2つあります。
C-H結合(やC-C結合)の電子が、空のp軌道と重なって電子密度を分け与える。隣接するアルキル基が多いほど、この重なりの相手が増える電子供与基・電子求引基の分類そのものは、誘起効果と共鳴効果の記事で扱っています。
第二級と第一級では安定性の差が大きいため、プロトンは実質的に末端側にしか付きません。その結果、臭化物イオンは中央の炭素に入り、2-ブロモプロパンができます。
HBrのプロトンを攻撃し(矢印①)、H-Br結合の電子対が臭素へ移る(矢印②)。生じた第二級カルボカチオンを臭化物イオンの非共有電子対が攻撃して(矢印③)、2-ブロモプロパンになる。「水素の多い炭素に水素が付く」というのは結果であって理由ではありません。理由はカルボカチオンの安定性のほうにあります。だから、アルキル基以外の置換基が付いていて安定性の序列が変わる分子では、この言い方のほうが先に通用しなくなります(5節)。
なお、臭素のように非共有電子対を持つ求電子剤は、カルボカチオンの代わりに三員環のブロモニウムイオンをつくります。それでも求核剤が置換基の多い炭素に入る点は変わりませんが、転位が起こらず立体化学も決まってくるなど、中身は少し違います。アルケンへの求電子付加反応の記事で扱っています。
脱離反応では、脱離基の隣(β位)に水素を持つ炭素が2種類以上あると、できるアルケンが複数になります。E1・E2の記事で扱った2-ブロモ-2-メチルブタンが典型例です。
CH2側の水素が抜けると三置換の2-メチル-2-ブテン(Zaitsev生成物)、CH3側の水素が抜けると二置換の2-メチル-1-ブテン(Hofmann生成物)になる。アルケンは置換基が多いほど安定です。たとえば1-ブテンを(E)-2-ブテンに異性化させると約12 kJ/molの発熱で、置換基が1つ増えるだけでこれだけ差がつきます6。E2の遷移状態ではすでにπ結合ができかけているので、この安定性の差の一部が、遷移状態の高さの差としても現れます。これがZaitsev則の中身です。
ところが、同じ基質でも塩基を変えると比率がひっくり返ります。Brownらは1956年に、2-ブロモ-2-メチルブタンにアルコキシドを作用させたときの生成物比を系統的に測りました7。
| 塩基 | 2-メチル-1-ブテン (置換基が少ない) | 2-メチル-2-ブテン (置換基が多い) |
|---|---|---|
KOEt | 30 % | 70 % |
KOtBu(1.0 M) | 72.5 % | 27.5 % |
かさ高いtert-ブトキシドは、内側の込み合った水素に近づけません。手が届くのは外向きのメチル基の水素のほうなので、置換基の少ないアルケンが主生成物になります。
Brownらはこの一連の研究で、こうした生成物比の変化を、塩基の強さではなく塩基の立体的なかさによるものと解釈しました7,9。
選択性を動かせるのは塩基だけではありません。脱離基を変えても同じことが起こります。同じ2-ペンチル骨格で脱離基だけを臭素からトリメチルアンモニウム基に替えると、末端側のアルケンの割合が跳ね上がります8。
古典的なHofmann脱離は、この性質を使います。アミンをヨウ化メチルで完全にメチル化して四級アンモニウム塩とし、酸化銀と水で水酸化物塩に変えてから加熱すると、置換基の少ないアルケンが得られます。
なぜ正電荷を持つ脱離基だとHofmann型になるのかについては、2つの説明が並立しています。
C-Hの切断が先行したカルボアニオン寄り、つまりE1cb寄りの形になる。負電荷は置換基の少ない炭素のほうが安定に置けるので、末端側の水素が抜けやすくなる現在では、E2の遷移状態を「カルボカチオン寄り」から「カルボアニオン寄り」まで連続的に変わりうるものとして捉える見方が一般的です10。この見方では、Zaitsev配向とHofmann配向はこの連続体の両端に対応します。実際の系でどちらの要因がどれだけ効いているかは、基質・塩基・溶媒の組み合わせごとに検討されてきました11。
E2にはもう1つ制約があります。切れるC-H結合とC-LG結合がアンチペリプラナー(anti-periplanar、反位配座とも呼ばれます)にそろった配置で進みやすい、という立体電子的な要件です(立体電子効果の記事を参照)。環状化合物では、この要件が置換基の数の議論より優先することがあります。
よく知られた例がメンチルクロリドとネオメンチルクロリドの対比です。ネオメンチルクロリドは、メチル基とイソプロピル基がエクアトリアル・塩素がアキシアルという安定配座のまま脱離でき、置換基の多い3-メンテンが主生成物になります(78 %)12。一方メンチルクロリドは3つの置換基がすべてエクアトリアルな配座が安定で、そのままでは脱離できません。環反転してすべてアキシアルになった配座から脱離するしかなく、そのとき塩素とアンチペリプラナーの位置にある水素は1つしかないため、置換基の少ない2-メンテンだけが得られます。反応速度も約200分の1になります12。
この例では、塩基も脱離基も変えていません。配座の制約だけで生成物が入れ替わっています。「かさ高い塩基ならHofmann」という覚え方だけでは説明できない場面があるということです。
なお、カルボカチオンを経るE1では脱離基が先に外れているので、残ったC-H結合を空のp軌道と平行にそろえるには単結合を回すだけで済み、アンチペリプラナーのような厳しい配座の要件はありません。そのため一般にZaitsev則に従います。
いす形のシクロヘキサンでのE2の配座の制約は、有機分子の立体配座の記事の5節で詳しく扱っています。
最後に、Markovnikov則が外れる代表例を見ます。過酸化物を含むHBrをアルケンに作用させると、臭素が末端の炭素に付いた生成物が得られます。KharaschとMayoが1933年に報告したもので、過酸化物効果と呼ばれます13。
これは機構が変わったために起きた反転です。過酸化物が分解して生じたラジカルが連鎖反応を始めると、アルケンに最初に付加するのはプロトンではなく臭素ラジカルになります。
注目すべきなのは、「2通りの中間体を書き出して、安定なほうを選ぶ」という手順がそのまま使えていることです。変わったのは、先にアルケンに付く粒子がプロトンから臭素ラジカルに替わったという一点だけです。「水素の多い炭素に水素が付く」という言い方だけを覚えていると、この反転は意味不明な例外に見えてしまいます。
ちなみに、この効果が実用になるのはHBrだけです。HClでは炭素ラジカルがHClから水素を引き抜く段階が吸熱になり、HIではヨウ素ラジカルがアルケンに付加する段階が進みにくいため、どちらも連鎖が続きません。
ただし、共通しているのは手順であって、中身までは同じではありません。カルボカチオンは正電荷を持ち、空のp軌道を抱えた化学種ですが、ラジカルは電荷を持たず、p軌道に電子が1つ残っただけの化学種です。置換基による安定化の幅も、ラジカルのほうがずっと小さくなります。
とくに注意が要るのが、電子求引基に対する応答が逆になることです。正電荷を持つカルボカチオンは電子を引っぱられると不安定になりますが、ラジカルは電荷を持たないため、シアノ基やカルボニル基のような電子求引基でも安定化されます。3節でカルボカチオンを「アルキル基が電子を押し出すから安定」と説明しましたが、この論法をそのままラジカルに持ち込むことはできません。アルキル置換の序列が一致するのは、どちらも主に超共役という同じ仕組みで安定化されると説明されるからであって、安定化の理由が全面的に同じだからではありません。
逆に、規則が外れそうに見えて外れない場合もあります。塩化ビニル(CH2=CHCl)にHClを付加させると、1,1-ジクロロエタンが得られます。塩素はすでに付いている炭素に、もう1つの塩素が入るということです。
塩素は電気陰性度が大きく、誘起効果では電子を引っぱるので、その隣に正電荷を置くのは一見不利に思えます。しかし塩素は非共有電子対を持っているので、隣の空のp軌道へ電子対を送り込んで共鳴安定化できます。ここでは共鳴のほうが勝ち、塩素の付いた炭素にカチオンができる経路が有利になります。誘起効果と共鳴効果の記事で扱ったハロゲンの二面性が、そのまま付加の向きに現れた形です。
3つの規則は、結局どれも同じ手順に還元できます。
芳香環での配向性も、この手順の同じ適用例です。置換基がオルト・パラに向くかメタに向くかは、ベンゼンの求電子置換反応の記事で見たとおり、中間体のアレニウムイオンをどの位置で安定化できるかで決まります。
Q1. 2-メチルプロペン((CH3)2C=CH2)にHBrを付加させると、主生成物はどちらですか。理由もあわせて説明してください。
A1. 2-ブロモ-2-メチルプロパンです。プロトンがCH2側に付くと第三級カルボカチオンが、反対側に付くと第一級カルボカチオンができます。第三級のほうがはるかに安定なので、実質的に前者の経路だけが進み、臭素は中央の炭素に入ります。
Q2. 同じ基質に、エトキシドを使った場合とtert-ブトキシドを使った場合とで、脱離の主生成物が入れ替わるのはなぜですか。
A2. かさ高いtert-ブトキシドは、内側の込み合ったβ水素に近づくときに立体的な反発を受け、その経路の遷移状態が高くなるからです。外向きの空いた水素を引き抜くほうが有利になり、置換基の少ないアルケンが主生成物になります。Brownらは、この変化を塩基の強さではなく立体的な要因によるものと解釈しました。
Q3. 過酸化物の存在下でHBrを付加させると臭素が末端に付くのに、「より安定な中間体ができる向きに進む」という原理は破れていないと言えるのはなぜですか。
A3. この条件ではラジカル連鎖反応になり、アルケンに最初に付加するのがプロトンではなく臭素ラジカルに替わるからです。臭素ラジカルは、より安定な第二級ラジカルが生じ、かつ立体的にも空いている末端側に付加します。2通りの中間体を書き出して安定なほうを選ぶという手順は同じで、先に付く粒子が入れ替わった結果として、臭素の位置だけが逆になっています。ただしカルボカチオンとラジカルは電荷の有無からして別の化学種で、安定化の理由まで同じというわけではありません。
3つの規則は、覚えておけば予測が速くなる便利な道具です。ただし本体は「どちらの経路の山が低いか」という1つの問いにあり、規則はその答えを場合分けして言い換えたものにすぎません。条件が変わって規則どうしが食い違って見えたときは、中間体を2通り書き出すところに戻ると判断がつきます。