ベンゼン環に付いた1つの置換基が、反応性(活性化するか不活性化するか)と配向性(オルト・パラかメタか)の両方を決めている場面によく出会います。この置換基の効果は、大きく誘起効果と共鳴効果の2種類に分けて考えることができます。
両方とも「電子の偏り」を扱う点は共通していますが、伝わり方がまったく違います。この記事では2つの効果を順番に見た上で、置換基を電子求引基・電子供与基に分類する枠組みと、両方の効果が逆方向にはたらくハロゲンという例外的な置換基まで扱います。
結合している2つの原子の間に電気陰性度の差が大きくあると、結合電子はより電気陰性度の大きい原子の方へ偏って分布します。これを分極と呼び、分極した結合を極性結合と呼びます。
CH3Cl)のC-Cl結合。電気陰性度の大きいCl側に結合電子が偏り、炭素側がわずかに正(δ+)、塩素側がわずかに負(δ−)に分極する。この極性結合によって生じた部分電荷が、隣接するσ結合の分極をさらに促す現象を誘起効果と呼びます。1934年、イギリスのChristopher K. Ingoldがこの効果を電子論の枠組みの中で体系化し、"I効果"という記号を与えました。
誘起効果はσ結合を1本伝わるごとに急激に弱まる、という性質を持ちます。同じClという置換基でも、カルボキシ基からの距離(間にσ結合を何本挟むか)によって効果の大きさがどれだけ変わるかを、酪酸の異性体で比較してみます。
Clを1個ずつ置いた場合のpKa。Clはどれも1個だけだが、カルボキシ基との間に挟まるσ結合の数が増えるほど酸性度への影響は急激に小さくなり、4位(4.52)では無置換の酪酸(pKa 4.82)との差が0.3まで縮まる。カルボキシ基からHが外れて生じるカルボキシラートイオン(-COO⁻)は、負電荷を帯びています。2位(α位)のようにカルボキシ基のすぐ隣に電気陰性度の大きいClがあると、−I効果によってこの負電荷の一部が強く引き寄せられ、イオンがよく安定化されます。同じClを3位、4位と遠ざけていくと、間に挟まるσ結合が1本増えるごとに効果は急激に弱まっていきます。なお、このpKaという数字が何を測っているのかは、酸性度と塩基性度の比べ方で整理しています。
誘起効果はσ結合を1本またぐごとに大きく減衰するため、電気陰性度の大きい原子が反応する部位から2〜3本以上σ結合を隔てると、影響はほとんど無視できるほど小さくなります。「近ければ強く、遠ざかれば急激に弱まる」という距離依存性が、誘起効果の大きな特徴です。
ここから先の図には、原子の右肩に小さく+や−が付いたものが登場します。これは形式電荷と呼ばれるもので、その原子が孤立した状態の原子と比べて電子を何個余分に持っている(または不足している)かを表す帳簿上の電荷です。
誘起効果がσ結合を通じた部分的な分極だったのに対し、共鳴効果(mesomeric effect、resonance effect)はπ電子や非共有電子対が、p軌道の重なりを通じて複数の原子にまたがって広がる(非局在化する)現象です。
カルボニル基(C=O)を例に見てみます。酸素は電気陰性度が大きいため、C=Oのπ電子は酸素側へ偏っています。この偏りを、π電子が酸素側へ移りきったと仮定した、炭素が形式電荷+、酸素が形式電荷−を帯びた構造として描くこともできます。
2つの共鳴構造を結ぶ矢印は、平衡を表す⇌ではなく↔を使います。⇌は実在する2つの異なる分子が実際に行き来していることを意味しますが、共鳴構造はどちらも架空の書き方にすぎず、分子が2つの構造の間で本当に振動しているわけではありません。
共鳴効果がとくに重要な意味を持つのが、負電荷を帯びたイオンの安定化です。酢酸イオン(CH3COO⁻)を見てみます。
C-O結合の長さは、実測でもほぼ等しい。左の構造では上の酸素、右の構造では右の酸素が負電荷を持っていますが、これは「分子が2つの状態を行き来している」のではなく、「どちらの酸素も同じだけ負電荷を分け合っている」という1つの実像を、便宜的に2通りに描いているだけです。負電荷が2つの酸素に分散する分、酢酸イオンは片方の酸素だけに負電荷が固定された仮想的な構造よりも安定になります。エノラートの記事で見たカルボアニオンの安定化も、これと同じ共鳴効果によるものです。同じ非局在化を分子軌道で描くとどうなるかは、共役と非局在化の記事で扱っています。
誘起効果・共鳴効果のどちらで見ても、置換基は電子を引き寄せる電子求引基(−I・−M)と、電子を押し出す電子供与基(+I・+M)に分類できます。3種類の置換基を例に、この分類とベンゼン環の配向性(オルト・パラ配向かメタ配向か)の関係を見ていきます。
フェノールのOH基は、酸素の電気陰性度によって−I効果(電子求引)を持ちますが、酸素の非共有電子対がベンゼン環に共鳴供与されるため+M効果(電子供与)も持ちます。
この場合、酸素の共鳴供与の方が誘起求引よりも強く働くため、OH基は正味では活性化基として働きます。共鳴構造で負電荷が乗る位置(オルト・パラ)は、求電子剤がそこを攻撃してできる中間体(アレニウムイオン)の正電荷を、OH基の非共有電子対が共鳴で引き受けられる位置でもあります。この中間体が特に安定になるため、OH基はオルト・パラ配向性を示します。
ニトロ基は窒素が形式電荷+を帯びているため−I効果を持ち、さらにベンゼン環のπ電子をニトロ基側へ引き込む−M効果も持ちます。
π電子がニトロ基側へ引き込まれ、正電荷がオルト位・パラ位の炭素に生じる(もう1か所、対称な位置のオルト形は省略)。Nの酸素の一方が新たに負電荷を帯びる分もあわせて、分子全体の電荷は変わらない。−I効果と−M効果が同じ向きにそろって働くため、ニトロ基は強い電子求引基で、ベンゼン環を不活性化します。共鳴構造で正電荷が生じるのはオルト・パラ位です。この2か所を求電子剤が攻撃すると、できる中間体の正電荷がニトロ基の付け根の炭素にも乗るため、中間体が特に不安定になります。結果として、残ったメタ位が相対的に反応しやすくなり、ニトロ基はメタ配向性を示します。この経験則自体は1892年にCrum BrownとGibsonが報告したもので、その後Ingoldが電子論で裏付けました。
ハロゲンは、この2つの例のどちらとも違う、少し特殊な立場にあります。
Clの非共有電子対がベンゼン環に供与され、負電荷がパラ位の炭素に生じる。OH基と同じ向きの共鳴供与だが、Clは3p軌道、環の炭素は2p軌道のため、軌道の重なりはOHの酸素(2p同士)ほど良くない。ハロゲンは電気陰性度が大きく−I効果(電子求引)を持ちますが、非共有電子対を環に供与する+M効果(電子供与)もあわせ持ちます。ここまではOH基と同じ組み合わせです。
違うのは、どちらの効果が勝つかです。塩素より下のハロゲンのp軌道は酸素よりも一回り大きく(Clなら3p軌道)、ベンゼン環の炭素が持つ2p軌道との重なりが酸素ほど良くありません。そのため+M効果はOH基に比べてかなり弱く、勝負は−I効果の方に傾きます。なお、フッ素は酸素と同じ2p軌道を使いますが、電気陰性度がすべての元素の中で最も大きく−I効果が非常に強いため、やはり不活性化基です。
結果として、ハロゲンは反応性としては不活性化基(支配的な−I効果に従う)でありながら、配向性はオルト・パラ配向(弱いながら働き続ける+M効果に従う)という、一見矛盾した振る舞いを示します。「不活性化するならメタ配向のはず」と思い込みやすい、要注意のポイントです。
| 置換基 | 誘起効果 | 共鳴効果 | 正味の反応性 | 配向性 |
|---|---|---|---|---|
ヒドロキシ基(-OH) | −I | +M(強) | 活性化 | オルト・パラ |
ニトロ基(-NO2) | −I | −M | 不活性化 | メタ |
ハロゲン(-Cl など) | −I | +M(弱) | 不活性化 | オルト・パラ |
Q1. 誘起効果と共鳴効果の一番の違いは何ですか?
A1. 誘起効果はσ結合を通じた電気陰性度差による部分的な分極で、結合を1本伝わるごとに急激に弱まります。共鳴効果はπ電子や非共有電子対がp軌道の重なりを通じて複数の原子に非局在化する現象で、複数の共鳴構造として描かれます。
Q2. 共鳴構造どうしを結ぶ矢印はなぜ⇌ではなく↔なのですか?
A2. ⇌は実在する2つの分子種が実際に行き来する平衡を表しますが、共鳴構造はどちらも同じ1つの分子を便宜的に2通り以上の書き方で表しただけの架空の構造だからです。分子の実際の姿は、それらを混ぜ合わせた共鳴混成体1つだけです。
Q3. ハロゲン置換基がベンゼン環を不活性化するのに、オルト・パラ配向性を示すのはなぜですか?
A3. ハロゲンは誘起効果で電子を求引する一方、共鳴効果では(軌道の重なりが弱いため)控えめな電子供与しか示さず、差し引きでは誘起効果が勝ちます。そのため反応性は不活性化になります。一方で配向性は、オルト位・パラ位を攻撃したときにだけ、ハロゲンの非共有電子対が中間体の正電荷を共鳴で引き受けられることで決まり、オルト・パラ配向になります。
誘起効果と共鳴効果は、どちらも「電子がどちらに偏るか」を扱う点は同じでも、σ結合を伝う部分的な分極なのか、p軌道の重なりを通じた電子の非局在化なのかという、伝わり方の違いがあります。この2つを分けて考える視点は、酸・塩基の定義や求核置換反応の記事で見てきた反応性の議論とも地続きで、置換基の効果を予測するときの基本の道具になります。