これまでの反応機構のテーマでは、SN1・SN2、E1・E2、そしてグリニャール反応のように、既に極性を持つ結合や、外から加える有機金属試薬が主役でした。今回扱うエノラートは少し毛色が違い、ごくありふれたケトンやアルデヒドが、塩基と出会うだけで自ら強力な炭素求核剤に姿を変える、という話です。
エノラートは、アルドール反応やクライゼン縮合をはじめ、炭素-炭素結合を作る反応群の土台になる化学種です。今回はエノラートそのものの構造・生成機構・反応性に焦点を当て、これらの具体的な反応は別記事で扱っています。
カルボニル基(C=O)に隣接する炭素をα炭素、そこに結合した水素をα水素と呼びます。α水素を持つカルボニル化合物は、酸や塩基(微量でよい)の触媒のもとで、このα水素がカルボニル酸素へと移動し、C=C二重結合を持つ異性体に変化することができます。この異性体をエノール形、もとのカルボニル化合物をケト形と呼び、両者はケト-エノール互変異性の関係にあります。
「互変異性(タウトメリー)」という用語は1885年にLaarによって導入されました1。ケト形とエノール形は、共鳴構造のように電子だけが動いた仮想的な表現ではなく、それぞれ実在する別々の分子である点に注意してください。ほとんどの単純なケトンやアルデヒドでは、平衡はケト形に大きく偏っており、エノール形はごく微量しか存在しません。一方、アセチルアセトンやアセト酢酸エチルのようにエノール形を多く含む化合物については、20世紀初頭に、ケト形とエノール形を紫外吸収スペクトルで調べる研究が行われています2。
α水素を持たない化合物(ホルムアルデヒドやベンズアルデヒド、安息香酸エステルなど)は、エノール形を作れません。これは4節で扱う交差アルドール反応で、反応の相手を選ぶときにも関わってきます。
ケト-エノール互変異性は、酸(またはごく弱い塩基)の触媒でプロトンが移って起こる、中性分子どうしの平衡です。これに対して、塩基でα水素を引き抜くと、負電荷を帯びたアニオンが生じます。これがエノラートで、塩基が強いほど多く(LDAのような強い塩基ならほぼ完全に)生じます。エノラートのα炭素は非常に求核性が高く、この性質が2節以降の話の中心になります。
エノラートの生成を、電子の動きを追いながら見てみます。ここでは水酸化物イオンを塩基として、アセトンのα水素を引き抜く例を扱います。
C-H結合の電子対が新しいC=Cπ結合になり(矢印②)、もとのC=Oのπ電子対が酸素上へ押し出される(矢印③)。ポイントは矢印が3本必要になることです。矢印①・②だけでは、カルボニル炭素がもとのC=Oを保ったまま新しいC=Cも持つことになり、炭素の結合数が5本相当になって原子価が破綻します。カルボニル炭素が5本目の結合を作らずに済むよう、③のようにπ電子対を酸素側へ逃がす必要があり、これが結果としてエノラートの酸素上の負電荷(と3組目の非共有電子対)を生み出します。
弱い塩基のもとでは、エノラートはごく低い平衡濃度でしか生成せず、大部分は中性のケト形として存在します。合成反応でエノラートを(ほぼ)完全に、しかも狙った位置だけに生成させたい場合には、LDA(リチウムジイソプロピルアミド)のようなかさ高く強い塩基が使われます。
もしα炭素の負電荷が炭素上にとどまったままだとしたら、それは通常のカルボアニオンと同じくらい不安定なはずです。ところが実際には、隣接するカルボニル基との共鳴によって、負電荷の一部を電気陰性度の高い酸素上に逃がすことができます。これはカルボン酸の共役塩基であるカルボキシラートイオンが、単なるアルコキシドイオンより安定である理由と同じ理屈です。
この共鳴による安定化は、α水素の酸性度(脱プロトンのしやすさ)を大きく引き上げます。いくつかの化合物のpKaを比べてみます(pKaという物差しの読み方そのものは、酸性度と塩基性度の比べ方で扱っています)。
| 化合物 | 酸性プロトンの種類 | pKa |
|---|---|---|
水 H2O | O-H | 14.0 |
| エタノール | O-H(アルコール) | 15.9 |
| アセトン | α水素(ケトン) | 19.2 |
| 酢酸エチル | α水素(エステル) | 25 |
| マロン酸ジエチル | α水素(1,3-ジカルボニル) | 13 |
いくつか注目してほしい点があります。第一に、共鳴で安定化されているとはいえ、アセトンのα水素(pKa 19.2)3は、水(pKa 14.0)やエタノールのO-H(pKa 15.9)よりまだ酸性度が低い、つまり脱プロトンしにくいということです。酸素は炭素よりもともと電気陰性度が高く、共鳴の助けなしでも負電荷をよく受け止められるため、単純にC-HとO-Hの酸性度を比べるときはこの点に注意が必要です。参考までに、隣にカルボニル基を持たない、ごく普通のアルカンのC-Hは、共鳴による助けがまったくないため、pKaは非常に高く、およそ50前後と推定されています(水中で直接測れる範囲を大きく超えるので、推定値です。pKaの記事の表を参照)。アセトンのα水素がそこから約30下がっているのは、共鳴安定化がいかに大きいかを物語っています。
第二に、エステルのα水素(pKa 25)はケトン(pKa 19.2)より酸性度が低い点です。エステルのアルコキシ酸素の非共有電子対がカルボニル炭素へ共鳴的に電子を供与するため、カルボニル基自体の電子求引性が弱まり、エノラートを安定化する力もケトンより小さくなるためです。ここで出てきた「共鳴的な電子供与」と「電子求引性」の関係は、誘起効果と共鳴効果の記事で置換基の分類として詳しく整理しています。
第三に、マロン酸ジエチルのように、α水素が2つのカルボニル基に挟まれている場合(1,3-ジカルボニル化合物)は、負電荷を2方向に非局在化できるため、酸性度が大きく上がります(pKa 13)。この性質は、マロン酸エステル合成やアセト酢酸エステル合成のような、穏やかな塩基でも定量的にエノラートを作れる反応の基盤になっています。
エノラートのα炭素は、他のカルボニル化合物の求電子的な炭素を攻撃できます。もっとも基本的な例として、アセトアルデヒドのエノラートがホルムアルデヒドを攻撃する反応を見てみます。
C=Cπ電子がホルムアルデヒドの炭素を攻撃して新しいC-C結合を作り(矢印①)、エノラート側の酸素の非共有電子対がカルボニルを作り直し(矢印②)、ホルムアルデヒド側のC=Oのπ電子が酸素へ押し出されて新しいアルコキシドになる(矢印③)。後処理でプロトン化されるとβ-ヒドロキシアルデヒドが得られる。これはまさにアルドール反応の最初の段階です。生成物はβ-ヒドロキシカルボニル化合物で、アルデヒドとアルコールの性質を併せ持つことから「アルドール」と呼ばれます。ホルムアルデヒドを求電子剤に選んだのは、α水素を持たず自分自身はエノラートを作れないため、交差反応の相手として都合が良いからです。ただし実際には、生成物のα水素がさらにホルムアルデヒドと反応する多重付加が起こりやすく、1回で止めるには条件の工夫が要ります。アルドール反応そのものの詳しい機構や、α水素を持つものどうしの反応の選択性は、別記事で扱っています。
同じ「エノラートが別のカルボニル炭素を攻撃する」という骨格は、エステルを求電子剤とするクライゼン縮合や、その分子内版であるディークマン縮合にも共通しています。エステルの場合は、攻撃後にアルコキシド(脱離基)が抜けてカルボニルが再生するところが、アルドール反応(脱離基を持たないため、そのままアルコキシドとして残る)との大きな違いです。これらの反応は別記事で詳しく扱っています。
Q1. エノラートの負電荷は主に酸素上にあると考えられているのに、なぜ実際に反応するときは炭素が求核剤として働くのですか?
A1. 共鳴構造のうち、電気陰性度の高い酸素上に負電荷を置ける形がエネルギー的に有利で、実際の電子分布に最も近い寄与をします。しかし炭素原子上にも相当な電子密度が非局在化しており、カルボニル化合物やハロゲン化アルキルとの反応では、ふつう炭素側から結合ができます。分子軌道から見ると、HOMOの係数がα炭素の方で大きいことが対応しています(フロンティア軌道論の記事)。
Q2. エステルのα水素は、ケトンのα水素より酸性度が高いですか、低いですか。理由もあわせて答えてください。
A2. 低いです(pKaが大きい)。エステルのアルコキシ酸素の非共有電子対がカルボニル炭素へ共鳴的に電子を供与し、カルボニル基自体の電子求引性を弱めるため、生じるエノラートの安定化がケトンの場合より小さくなるからです。
Q3. ケト-エノール互変異性とエノラートの生成は何が違いますか?
A3. ケト-エノール互変異性は中性分子どうしの平衡で、生成物(エノール)は中性分子です。酸触媒ではまずカルボニル酸素にプロトンが付き、そのあとα水素が外れます。塩基触媒では、いったんエノラートができてから酸素にプロトンが付きます。一方エノラートの生成は、塩基がα水素を引き抜く反応で、生成物は負電荷を帯びたアニオンです。
エノラートは、それ自体は「ケトンやアルデヒドから水素が1つ抜けただけ」の単純な化学種に見えますが、共鳴による安定化のおかげで穏やかな条件でも生成でき、しかも強力な炭素求核剤として振る舞います。この2つの性質が、アルドール反応やクライゼン縮合をはじめとする、炭素骨格を組み立てる反応群を支えています。これらの反応は、アルドール反応の記事とクライゼン縮合とディークマン縮合の記事で具体的に扱っています。