エノラートの反応性の記事ではα水素からエノラートが生じる機構を、アルドール反応の記事ではそのエノラートがアルデヒドやケトンに求核付加する反応を扱いました。今回は同じエノラートを、アルデヒドやケトンではなくエステルに対して働かせる反応、クライゼン縮合と、それが分子内で起こるディークマン縮合を扱います。
1863年にGeutherが酢酸エチルからアセト酢酸エチルができる反応を報告し1、1887年にはClaisenがケトンのエノラートをエステルに作用させる方法として一般化しました2。
クライゼン縮合の基本的な考え方は、アルドール反応とまったく同じです。エステルのα水素を塩基が引き抜いてエノラートを生成し、そのエノラートがもう1分子のエステルのカルボニル炭素を攻撃します。エステルのα水素は、ケトンやアルデヒドのα水素に比べて酸性度が低い点に注意が必要です。カルボニル炭素に結合したOR基が、電子を押し込む共鳴によってエノラートを不安定化するためで、酢酸エチルのα水素のpKaは水中でおよそ25と見積もられており5、アセトンのα水素(およそ19〜20)よりかなり大きな値です。それでも十分に強い塩基(ナトリウムエトキシドなど)を使えば、エノラートを生成させることができます。
アルドール反応との決定的な違いは、エステルのカルボニル炭素にはORという脱離基が最初から付いている点です。アルドール反応では、エノラートが攻撃した後にできるアルコキシドがそのまま生成物になります(付加で反応が止まる)。クライゼン縮合では、同じように生じたアルコキシド中間体からOR⁻が脱離してカルボニルが作り直され、求核アシル置換(付加-脱離)まで進みます。2節でこの違いを電子の動きで確認します。
まず、一方の酢酸エチルのα水素をエトキシドイオンが引き抜き、エステルのエノラートを生成します。エノラートの生成機構の記事やアルドール反応の記事で扱った3本矢印のパターンと同じです。
C-H結合の電子対が新しいC=Cπ結合になり(矢印②)、もとのC=Oのπ電子対が酸素上へ押し出される(矢印③)。塩基として働いたエトキシドイオンは、プロトンを受け取ってエタノールになる。生じたエステルのエノラートは、もう1分子の酢酸エチルのカルボニル炭素を攻撃します。ここまではアルドール反応の求核付加とまったく同じ電子の動きです。
C-C結合を作り(矢印①)、エノラート側の酸素の非共有電子対がカルボニルを作り直し(矢印②)、攻撃された側のC=Oのπ電子が酸素へ押し出されて新しいアルコキシドになる(矢印③)。ここまではアルドール反応の付加段階と同じ電子の動きである。アルドール反応であれば、この四面体アルコキシド中間体がそのまま生成物になります。ところがここではカルボニル炭素にOEtという脱離基が残っており、酸素上の負電荷がこれを押し出す形で、カルボニルを作り直すことができます。
C=Oを作り直し(矢印④)、C-OEt結合の電子対がエトキシドイオンとして脱離する(矢印⑤)。生成物はβ-ケトエステル(アセト酢酸エチル)である。この2段階(求核付加 → 脱離)をあわせて求核アシル置換と呼びます。グリニャール反応の記事で、エステルにグリニャール試薬が付加してOEt⁻が脱離しケトンができる例を扱いましたが、あれも同じ求核アシル置換の一種です。求核剤がエノラートであっても有機金属試薬であっても、エステルのカルボニル炭素で起きていることの骨格は同じです。
2つのエステル基を持つ1分子のジエステルに塩基を作用させると、同じ求核アシル置換が分子内で起こり、環状のβ-ケトエステルができることがあります。この反応は1894年にDieckmannが報告し3、その名にちなんでディークマン縮合と呼ばれます。機構はクライゼン縮合とまったく同じで、一方のエステルのα水素からできたエノラートが、同じ分子内にあるもう一方のエステルのカルボニル炭素を攻撃するだけです。
アジピン酸ジエチルでは、2つのエステルの間に4つのCH2が挟まっており、環化すると5員環ができます。鎖がもう1つ長いピメリン酸ジエチル(エステル間にCH2が5つ)であれば、同じ反応で6員環の2-オキソシクロヘキサンカルボン酸エチルが得られます。
ディークマン縮合が実用的に進みやすいのは、5員環・6員環ができる場合にほぼ限られます。5員環・6員環を作る場合は、反応する2つの部位が同じ分子の中の近い位置にあるので分子間の反応より有利なうえ、環のひずみが小さく、遷移状態でも歪みにくいためです。鎖の途中に置換基(特にジェミナル二置換)があると、末端どうしが近づく配座の比率が増え、環化がさらに速くなることが知られています。この効果は1915年にBeesley・Ingold・Thorpeが報告した研究にちなんでThorpe-Ingold効果(gem-ジメチル効果)と呼ばれます4。
クライゼン縮合の求核付加-脱離の段階だけを見ると、エステルの求核アシル置換はもともと平衡に近い反応で、生成物側に大きく偏るとは限りません。それでもクライゼン縮合が実用的に進むのは、できあがったβ-ケトエステルのα水素(2つのカルボニルに挟まれた位置)が、出発物質のエステルのα水素よりもはるかに酸性度が高いためです。酢酸エチルのα水素のpKaがおよそ25であるのに対し、アセト酢酸エチルのようなβ-ケトエステルのα水素のpKaはおよそ11程度まで下がります。2つのカルボニル基の両方と共鳴できるため、エノラートが著しく安定化されるからです。
反応系にあるエトキシドイオンは、生成したβ-ケトエステルをほぼ不可逆に脱プロトン化します。この脱プロトン化が平衡を生成物側へ引っ張る駆動力になっており、触媒量の塩基では反応が完結しません。触媒量の塩基で足りると考えるのはよくある誤解で、少なくとも1当量の塩基が必要です。反応が終わったら希酸で後処理し、生成したエノラートをプロトン化して中性のβ-ケトエステルとして単離します。
アルドール反応の記事で扱った交差アルドール縮合(その一種がクライゼン-シュミット縮合)と同様、クライゼン縮合も異なる2つのエステルの間で行うことができます。ただし両方のエステルがα水素を持っている場合、どちらもエノラートになれるため、自己縮合2種類と交差縮合2種類、あわせて4種類の生成物の混合物になりやすく、実用上の選択性は高くありません。
一方のエステルがα水素を持たない場合は話が別です。炭酸ジエチルやシュウ酸ジエチル、ギ酸エチル、安息香酸エチルのようにα水素を持たない(あるいは持てない)エステルは自分ではエノラートになれず、もっぱら求電子剤として働きます。もう一方のα水素を持つエステルだけがエノラートになるため、生成物は、交差生成物と、α水素を持つ側どうしの自己縮合生成物の2通りに絞られます。α水素を持たないエステルを過剰に使うなどの条件の工夫で、交差生成物を優先して得られます。
この反応で得られるマロン酸ジエチルは、2つのエステルに挟まれたα水素(pKaおよそ13)を持つため、後続の反応でもエノラートとして扱いやすく、マロン酸エステル合成などで広く使われる基本試薬です。
ORという脱離基があるため、四面体アルコキシド中間体はそこで止まらず、脱離基が抜けてカルボニルを作り直す求核アシル置換まで進みます。Q1. アルドール反応とクライゼン縮合の、反応機構上の決定的な違いは何ですか?
A1. エステルのカルボニル炭素にはOEtという脱離基があるため、エノラートが付加してできた四面体アルコキシド中間体がそこで止まらず、OEt⁻を脱離してカルボニルを作り直すところ(求核アシル置換)まで進みます。アルドール反応ではカルボニル炭素に脱離基がないため、付加した段階のアルコキシド(後処理後はアルコール)で反応が止まります。
Q2. クライゼン縮合に、なぜ化学量論量(1当量以上)の塩基が必要なのですか?
A2. 生成するβ-ケトエステルのα水素(2つのカルボニルに挟まれる)は、出発物質のエステルのα水素よりずっと酸性度が高く(pKaでおよそ25から11程度まで下がる)、塩基による脱プロトン化がほぼ不可逆に進んで平衡を生成物側に引っ張るからです。この脱プロトン化を完了させるには、少なくとも1当量の塩基が必要になります。
Q3. ディークマン縮合で5員環・6員環が優先されるのはなぜですか?
A3. 5員環・6員環を作る分子内反応は、反応する部位が近くにあるので分子間の反応より有利なうえ、5員環・6員環は環のひずみが小さく遷移状態を作りやすいためです。かさ高い置換基による配座の偏り(Thorpe-Ingold効果)も、環化を後押しする一因として知られています。
クライゼン縮合とディークマン縮合は、エノラートの求核性という同じ性質を、脱離基を持つエステルに向けた結果として理解できます。アルドール反応との違いは電子の動きの1ステップ(脱離)だけですが、その1ステップが「付加で終わる反応」と「置換まで進む反応」を分けており、さらに生成物の酸性度の違いが平衡の向きまで決めています。1つの反応性の概念が、いくつもの反応の違いを説明できる好例といえます。
なお、同じクライゼンの名を冠した「クライゼン転位」は、クライゼン縮合とはまったく別の型の反応([3,3]シグマトロピー転位)です。こちらはペリ環状反応の記事で扱っています。