有機化合物を強い磁場の中に置き、電波(ラジオ波)を当てると、分子内のある原子核だけがエネルギーを吸収します。
この吸収がどの位置(化学シフト)で、どのように分裂して起こるかを読み取ることで、分子内の水素や炭素が、それぞれどんな環境に置かれているかが分かります。IRスペクトルが官能基の「有無」を教えてくれるのに対し、NMRスペクトルは炭素骨格の「形」そのものを教えてくれる点が対照的です。これがNMR(核磁気共鳴)スペクトルの基本的な考え方です。
原子核は電荷を持って自転(スピン)しているため、小さな磁石のようにふるまいます。ただし、すべての原子核が磁石としての性質(核スピン)を持つわけではありません。核スピン量子数 I が0の原子核は磁気モーメントを持たず、磁場をかけてもエネルギー準位が分裂しないため、NMR信号を示しません。
1Hや13Cは I = 1/2 を持つためNMR信号を示しますが、有機化合物を構成する代表的な原子核である12Cや16Oは I = 0 のため、NMRでは「見えません」。図1は、この違いを模式的に示したものです。
1H-NMRと13C-NMRは、見ている原子核が違うだけで、共鳴の原理は同じです。ただし13Cは天然存在比が約1.1%と低く、1Hに比べて感度も低いため、同じ濃度の試料でも信号はずっと弱くなります。この違いは、後述するプロトンデカップリングの必要性にもつながります。
試料は、そのままではなく重水素化溶媒(重クロロホルムCDCl3など)に溶かして測定します。溶媒の水素を重水素に置き換えておくことで、溶媒自身の強い1H信号が測定の邪魔になるのを避けられます。
試料管を強力な磁場の中に置き、電波(ラジオ波)のパルスを当てると、原子核が吸収したエネルギーを放出しながら元の状態に戻っていきます。この過程で生じる微弱な信号を検出し、数学的な変換(フーリエ変換)を経てスペクトルとして表示します。
基準物質には、ケイ素に4つのメチル基が結合したテトラメチルシラン(TMS、Si(CH3)4)が使われます。12個の水素がすべて等価で、電子的に強く遮蔽されているため、他のほとんどの化合物よりさらに高磁場側に、鋭く強いシグナルを1本だけ示します。化学的に不活性で揮発性も高く試料から除きやすいことから、Tiersが1958年に内部基準として提案して以来、広く使われています。
化学シフトは、TMSを基準に、次の式で定義されるδ(ppm、100万分率)という単位で表します。
δ = (ν試料 − νTMS) / νTMS × 106
Hzではなくppmを使うのは、こうすることで分光計の磁場強度によらず同じ数値になるためです。異なる装置で測定したスペクトルの化学シフトを、そのまま比較できるようになります。IUPACも、すべての核種の化学シフトをTMSの1Hシグナルを基準に統一的に表すことを推奨しています。
ここでは、酢酸エチル(CH3-C(=O)-O-CH2-CH3)を例に、1H-NMRスペクトルの読み方を見ていきます。この分子には化学的に区別される水素が3種類あり、それぞれa(アセチル基のCH3)・b(O-CH2)・c(末端のCH3)と呼ぶことにします。
| プロトンの種類 | 化学シフト(ppm) | 特徴 |
|---|---|---|
| TMS(基準) | 0.00 | 鋭い一重線 |
アルキルC-H | 0.9〜1.5 | c(末端CH3)はこの範囲 |
カルボニルに隣接するC-H | 2.0〜2.5 | aはこの範囲 |
エーテル・エステルのO-CH | 3.3〜4.5 | bはこの範囲 |
芳香族C-H | 6.5〜8.5 | 大きく低磁場 |
アルデヒドCHO | 9.5〜10.5 | 非常に低磁場 |
芳香族のC-Hが大きく低磁場に現れるのは、環を一周するπ電子が磁場の中で環電流をつくり、環の外側の磁場を強めるためです。この効果は芳香族性とヒュッケル則の記事の5節で扱っています。
ピークの面積(積分値)は、そのシグナルに対応する水素の数に比例します。酢酸エチルではa : b : c = 3 : 2 : 3となり、これは各基に含まれる水素数と一致します。積分値を数えることは、分子中の水素の「数」を知る手がかりになります。
一方、シグナルの「形」からは別の情報が得られます。スピン-スピン分裂(スピン結合)と呼ばれる現象で、隣接する炭素上の水素どうしが、互いに相手のシグナルを分裂させ合うというものです。
n+1則: あるシグナルが、化学的に等価なn個の水素と隣接している場合、そのシグナルはn+1本に分裂します。分裂した線の強度比は、二項係数(パスカルの三角形)に従います。
酢酸エチルでは、bは隣接するc(CH3、3個の等価な水素)により四重線(1:3:3:1)に、cは隣接するb(CH2、2個の等価な水素)により三重線(1:2:1)に分裂します。図2は、この分裂が生じる仕組みを示したものです。
一方、aは一重線(分裂なし)として現れます。aが隣接しているのはカルボニル炭素であり、そこには水素が結合していないため、分裂させる相手がいないからです。
同一の炭素上にある等価な水素どうしや、化学的に区別できない水素どうしは、互いを分裂させません。「隣に水素があれば必ず分裂する」わけではなく、「化学的に区別される水素が隣接している場合に分裂する」という点に注意が必要です。
図3は、酢酸エチルの1H-NMRスペクトルを模式的に示したものです(分裂の間隔は視認性のため誇張してあります)。
分裂の間隔を周波数(Hz)で表したものをカップリング定数(スピン結合定数)Jと呼びます。Jは、bとcのように互いに分裂させ合う相手どうしで共通の値を取り、二面角や結合の種類など、分子の立体構造を反映する重要な情報源になります。
化学シフトはppmで、カップリング定数JはHzで表し、どちらも磁場強度によらず一定です。ただし、分裂の間隔をppmに換算した「見かけの間隔」は、磁場が強いほど狭くなります。ppm目盛りの上で見た間隔をJと混同しないよう注意が必要です。
13C-NMRの化学シフトは、およそ0〜220 ppmと、1H-NMR(0〜12 ppm程度)に比べて非常に広い範囲に広がります。炭素の周囲の電子環境の違いが、より大きくシフトに反映されるためです。
13C-NMRのスペクトルは、通常プロトンデカップリング(1H完全デカップル)という手法で測定されます。すべての1H核にも同時にエネルギーを与え続けることで、13C-1H間のスピン結合を打ち消し、それぞれの炭素シグナルを分裂のない一重線として観測する手法です。
プロトンデカップリングを行わない場合、感度がもともと低い13Cのシグナルが、周囲の水素との結合でさらに何本にも分裂して重なり合い、スペクトルの解釈が非常に困難になります。デカップリングは、この問題を避けるための実務上の標準的な手法です。
例として、トルエンの13C-NMRを見てみます。トルエンには7個の炭素がありますが、分子の対称性により、環のo-位(オルト)どうし、m-位(メタ)どうしがそれぞれ等価になるため、異なるシグナルは5本しか現れません。
等価な炭素どうしは重なって1本のシグナルになるため、13C-NMRのシグナルの本数を数えることは、分子の対称性を確かめる有力な手がかりになります。例えば、置換基の位置がo-・m-・p-で異なる二置換ベンゼンどうしを、芳香環由来のシグナルの本数の違いから区別できる場合があります。
図5は、トルエンの13C-NMRスペクトルを模式的に示したものです(芳香族炭素の4本は125〜138 ppmの狭い範囲に集まっています)。sp2混成の芳香環炭素は、sp3のCH3基よりも大きく低磁場側(おおむね110〜160 ppm。トルエンでは125〜138 ppm)に現れます。
CH3基で合計5本のシグナルが現れる。実測スペクトルではなく、文献の化学シフト値(CH3 21.5、para 125.3、meta 128.3、ortho 129.1、ipso 137.9 ppm、重クロロホルム中)の位置に線を引いた模式図で、線の高さは目安。左上は、芳香族の部分(122〜140 ppm)を拡大したもの。13C-NMRのシグナルの高さ(強度)は、1H-NMRの積分値のように炭素の数に比例するわけではありません。特に、水素が直接結合していない炭素(ipso炭素のような四級炭素)は、緩和や核オーバーハウザー効果の違いにより、他の炭素よりシグナルが小さく現れる傾向があります。図5でipsoのシグナルを低く描いているのはこのためです。ピークの本数は構造の手がかりになりますが、高さから炭素の数を直接読み取ることはできません。
ここで扱ったのは、いずれも1次元スペクトルの基本的な読み方です。実際の構造決定では、多重度を選択的に見るDEPT法や、原子核どうしの相関を見る2次元NMR(1H同士のCOSY、1Hと13CのHSQCなど)といった、より発展的な手法も使われますが、これらはまた別の機会に扱います。
Q1. 12Cや16OがNMR信号を示さないのはなぜですか?
A1. 核スピン量子数 I が0のため、磁場をかけてもエネルギー準位が分裂せず、共鳴が起こらないからです。
Q2. TMSが基準物質として使われる理由は何ですか?
A2. 12個の水素がすべて等価で強く遮蔽されているため、鋭く強いシグナルを1本だけ、他のほとんどの化合物より高磁場側に示す上、化学的に不活性で除去しやすいためです。
Q3. n+1則とはどのようなルールですか?
A3. あるシグナルが化学的に等価なn個の水素と隣接している場合、そのシグナルはn+1本に、二項係数の強度比で分裂するというルールです。
Q4. 酢酸エチルのアセチル基(a)のシグナルが一重線になるのはなぜですか?
A4. aが隣接しているのは水素を持たないカルボニル炭素であり、分裂させる相手の水素がいないためです。
Q5. 13C-NMRでプロトンデカップリングを行う理由は何ですか?
A5. デカップリングを行わないと、感度が低い13Cのシグナルが周囲の水素との結合でさらに分裂して重なり合い、解釈が困難になるためです。デカップリングにより各炭素を分裂のない一重線として観測できます。
実際のNMRスペクトルを何本も読み、化学シフト・積分比・分裂パターンを一つずつ確認していくと、それぞれのシグナルがどの水素・炭素に対応するかが自然と分かるようになります。
ただしNMRが教えてくれるのは、あくまで水素と炭素の置かれた環境とそのつながり方です。分子式そのものを決める段階では、質量スペクトルの読み方のほうが出番になります。