IRスペクトルは官能基を、NMRスペクトルは炭素と水素のつながり方を教えてくれます。ではその手前、そもそも分子式が何なのかは、どうやって決めるのでしょうか。
その役割を担うのが質量分析です。分子の質量を測り、そこから分子量と分子式を逆算します。実際の構造決定では、まず質量分析で分子式を確定させ、IRスペクトルとNMRスペクトルで中身を詰めていく、という順序がよく使われます。
IRもNMRも、分子に電磁波を当てて吸収されたエネルギーを観測しています。質量分析はここが根本から違い、分子をイオンに変え、粒子そのものを質量ごとに分けて数えます。
IUPACが「mass spectroscopy(質量分光法)」ではなく「mass spectrometry(質量分析)」という語を推奨しているのも、この違いのためです。電磁波の吸収・放出を測る分光法と混同されないように、という理由が注記されています。
得られるグラフが質量スペクトルで、横軸がm/z、縦軸が相対強度です。
m/zは無次元の量です。イオンの質量を統一原子質量単位で割った値を、さらに電荷数(符号は無視)で割ったものと定義されています。横軸にDaやamuのような質量の単位を付けるのは推奨されていません。
ただし1価のイオンなら、m/zの数値はそのままイオンの質量(ダルトン)に一致します。有機化学で出てくるスペクトルの大半は1価なので、「横軸をそのまま質量として読める」と考えて差し支えありません。
この手法の出発点は、質量を測るためではなく同位体を探すために作られた装置でした。1913年にJ. J. Thomsonが陽極線の装置でネオンに質量20と22の2種類があることを見いだし、1919年にAstonがより分解能の高いマススペクトログラフを作って、多くの元素が同位体の混合物であることを示しています(1922年ノーベル化学賞)。
同位体の存在そのものがこの装置で発見された、という経緯は、後半の同位体パターンの話にそのままつながります。
質量分析は試料を壊してしまう測定です。一方で必要量は非常に少なく、NMRが数mgを要するのに対し、質量分析はマイクログラム以下でも足りることが多い点が実務上の大きな利点になります。
質量分析計は、大きく3つの部分からできています。
m/zごとに分けられ、検出部で数えられる。イオンが途中で他の分子と衝突しないよう、装置の内部は高真空に保たれる。なぜ最初にイオンにするのでしょうか。中性の分子は電場や磁場から力を受けないので、動かして選り分けることができないからです。イオンにしてしまえば、電場・磁場の中での運動はm/zだけで決まります。
最も古くから使われているのが電子イオン化(EI)です。気化した分子に電子線を当て、分子から電子を1個はじき出します。残るのは電子が1個足りないラジカルカチオンM+•で、これを分子イオンと呼びます。
このとき電子のエネルギーは、慣習的に70 eVに固定されます。この付近ではイオン化の効率がほぼ頭打ちになっており、多少ずれても壊れ方が変わりません。だからこそ装置や研究室が違っても同じスペクトルが得られ、データベースとの照合が成り立ちます。
裏を返すと、EIは分子に大きなエネルギーを与える「硬い」方法です。分子イオンがすべて壊れてしまい、Mのピークが見えないこともあります。
そこで使われるのが、より穏やかなイオン化法です。化学イオン化(CI)は、反応ガス(メタンなど)を先にEIでイオン化し、そのイオンと試料分子との気相イオン分子反応でプロトンを渡します。主に得られるのは[M+H]+で、分子量が読み取りやすくなります。
エレクトロスプレーイオン化(ESI)は、試料の溶液を細い管の先から高電圧で霧にし、溶媒が飛んだあとにイオンだけを気相へ送り出します。加熱で壊れる分子や気化しない分子でも測れ、液体クロマトグラフィーと直結できます。
大きな分子はESIで多価イオン[M+nH]n+になります。電荷数で割るぶんm/zが小さくなるので、測定範囲の狭い装置でもタンパク質のような巨大分子を扱えます。
| イオン化法 | 主に得られるイオン | 向いている試料 | 特徴 |
|---|---|---|---|
| EI(電子イオン化) | M+•とフラグメント | 気化できる低分子 | 再現性が高くライブラリ検索ができる。構造情報が豊富だが分子イオンが残らないことがある |
| CI(化学イオン化) | [M+H]+など | 気化できる低分子 | 壊れにくく分子量を確かめやすい。構造情報は少ない |
| ESI(エレクトロスプレー) | [M+H]+、[M+Na]+、多価イオン | 溶液にできる分子・生体高分子 | 熱に弱い分子でも測れ、LCと直結できる。フラグメント情報は少ない |
レーザーを使うMALDIも、生体高分子や合成高分子でよく使われます。ESIを確立したFennと、レーザーイオン化で高分子の測定を可能にした田中耕一は、2002年のノーベル化学賞を受賞しています。
MALDIの由来はしばしば混同されます。現在標準的に使われている、有機化合物をマトリックスに用いる方法はKarasとHillenkampの報告に由来し、田中らが1988年に報告したのは超微粒子をグリセリンに分散させた別の方法です。「高分子を壊さずイオン化する」という着想は共通しますが、同じ手法ではありません。
イオンをm/zで分ける部分には、磁場型・四重極型・飛行時間(TOF)型などがあります。方式は違っても、加速されたイオンの運動がm/zだけで決まるという原理は共通です。
四重極型は4本の電極に直流と高周波を重ねてかけ、特定のm/zのイオンだけが電極の間を通り抜けられるようにします。いわば質量のフィルターです。
TOF型は、同じ運動エネルギーを与えて一定距離を飛ばします。同じエネルギーなら軽いイオンほど速いので、到達までの時間がm/zを表します。
検出部はイオンを電流として数えます。縦軸の相対強度は、そのスペクトルで最も強いピーク——基準ピーク——を100としたときの比で表すのが慣習です。
ここからが読み方の本題です。公称質量150前後の、ある化合物のEIスペクトルを例にとります。
m/zの位置に線を引いたもの。高さはM+1を除き説明のための目安で、実際の相対強度は装置や測定条件によって変わる。最も高いm/zの側にある151が、分子イオンの候補です。まずはここを起点にします。
「一番大きいm/zのピーク=分子イオン」とは限りません。すぐ隣には同位体によるピーク(M+1、M+2)が並びますし、試料に由来しない不純物のピークが混じることもあります。ソフトなイオン化法では[M+H]+や[M+Na]+として、分子量より大きいm/zに出ます。
EIで分子イオンが消えてしまっている場合は、CIやESIで測り直して分子量を確かめるのが確実です。
質量分析では、「分子量」と呼ばれるものが3種類出てきます。混同すると計算が合わなくなるので、先に整理しておきます。
| 呼び方 | 定義 | この例での値 |
|---|---|---|
| 公称質量 | 最も存在比の高い同位体の質量数の和(12C=12、1H=1、14N=14、16O=16) | 151 |
| モノアイソトピック質量 | 同じ同位体の組み合わせを精密質量で足したもの | 151.0633 |
| 平均質量 | 天然の同位体比で加重平均したもの。教科書の「分子量」 | 151.16 |
低分解能の装置では整数、つまり公称質量として読みます。高分解能の装置で測った値と突き合わせるのはモノアイソトピック質量です。
高分解能の測定値を、教科書に載っている平均分子量と比べてはいけません。平均質量は13Cなどを含めた加重平均なので、単一のイオンの質量とは原理的に別物です。この例でも151.16と151.0633では小数点以下がまったく合いません。
公称質量151は奇数です。ここで窒素則が使えます。
C・H・N・O・S・P・ハロゲンからなる中性分子では、公称質量が奇数なら窒素が奇数個、偶数なら窒素は0個か偶数個です。
理由は結合の手の数にあります。これらの元素は「公称質量が偶数なら結合の手も偶数、奇数なら奇数」という対応になっています(Cは12と4本、Oは16と2本、Hは1と1本、Clは35と1本)。
ところが窒素だけは質量14(偶数)に対して手が3本(奇数)です。この1つのずれのおかげで、窒素が1個増えるたびに分子全体の公称質量の偶奇がひっくり返ります。
151は奇数なので、窒素は奇数個。分子量150程度で窒素3個は詰め込みすぎなので、まず1個として先に進みます。
窒素則には2つの前提があります。第一に、これは公称質量についての規則で、精密質量には使えません。第二に、EIのM+•はそのまま判定できますが、ESIなどで観測される[M+H]+は水素が1個多いぶん偶奇が逆転します。窒素1個のこの化合物も、[M+H]+なら152という偶数で出ます。
分子イオンのすぐ隣、152にも小さなピークが出ます。これがM+1ピークで、分子の中の原子1個が重い同位体に置き換わったものです。
13Cは天然に約1.1%含まれます。炭素がn個あれば、そのうちどれか1個が13Cである確率はおよそ1.1n%。つまりM+1の高さはおおよそ炭素の数に比例します。
窒素は15Nが約0.4%で少し上乗せされ、水素の2Hは約0.01%とほとんど効きません。
図2ではM+1がMの約9%です。1.1n + 0.4 ≒ 9 とおくとn ≒ 8、炭素8個と見積もれます。
ここまでで炭素8個(96)と窒素1個(14)。151から引くと41が残ります。残りを酸素と水素で埋めると、酸素2個(32)と水素9個(9)で41ちょうど。分子式はC8H9NO2と決まります。
不飽和度を数えると (2×8+2+1−9)÷2 = 5。ベンゼン環(4)とC=O(1)で説明がつきます。この分子式と不飽和度に当てはまる代表的な化合物が、解熱鎮痛薬として知られるアセトアミノフェン(パラセタモール)です。
M+1法は考え方としては明快ですが、低分解能の装置では強度の読み取り誤差が大きく、炭素数が1〜2個ずれることも珍しくありません。隣り合うピークの裾が重なっていたり、検出器が飽和していたりすると、比がそのまま歪みます。実務では次に述べる精密質量のほうが信頼されます。
公称質量が同じでも、組成が違えば精密質量は一致しません。核子1個あたりの質量が元素ごとにわずかに違う(質量欠損)ためです。
よく引かれる例が公称質量28の3つです。COが27.9949、N2が28.0061、C2H4が28.0313。小数第2位ですでに別物だと分かります。
この分解能を表すのがm/Δmという量です。COとN2の差は0.0112なので、28 ÷ 0.0112 ≒ 2500 の分解能があれば2本に分かれて見えます。
今回の例で、公称質量151かつ窒素則を満たす(窒素が奇数個の)組成のうち、C・H・N・Oからなり、窒素3個以下・水素5個以上・不飽和度4以上(ベンゼン環を持ちうる)のものに絞って並べると次のようになります。
| 分子式 | モノアイソトピック質量 | 不飽和度 |
|---|---|---|
C7H5NO3 | 151.0269 | 6 |
C6H5N3O2 | 151.0382 | 6 |
C11H5N | 151.0422 | 10 |
C8H9NO2 | 151.0633 | 5 |
C7H9N3O | 151.0746 | 5 |
C9H13NO | 151.0997 | 4 |
C8H13N3 | 151.1109 | 4 |
この表の中で目的の151.0633に最も近いのは151.0746で、差は0.0112(約74 ppm)です。ただし表の条件を外すと、もっと近い組成があります。C・H・N・Oだけで総当たりすると、C4H5N7(151.0606、差0.0027)やC3H9N3O4(151.0593、差0.0040)が見つかります。
ここで区別しておきたいのは、分解能と質量確度です。分解能は、同時に存在する2本のピークを分けて見る力です(上のCOとN2の例)。一方、純粋な1つの化合物の組成を決めるときに効くのは、測った値が真の値にどれだけ近いか、つまり質量確度のほうです。
最も近いC4H5N7との差でも約18 ppmあるので、測定値を±5 ppm(この質量なら±0.0008程度)の確度で読めれば、C・H・N・Oの範囲では候補は1つに絞れます。低分解能の装置でM+1から炭素数を推定していた作業が、高分解能では1回の測定に置き換わるわけです。
なお、EIで観測されるのは分子から電子が1個抜けたM+•なので、厳密にはその質量は中性分子より電子1個分(約0.00055)軽く、この例では151.0628です。差は約3.6 ppmなので、±5 ppmで比べるかぎり結論は変わりません。確度をさらに絞って比べるときは、組成式から計算した質量から電子の質量を引いた値を使います。
13Cの話を一般化しましょう。分子にどの元素が入っているかは、M+1とM+2の高さから読み取れます。
有機化学でよく出会う元素のうち、M+2に目立つピークを出すのは限られています。
| 元素 | 主な同位体の存在比 | スペクトルでの見え方 |
|---|---|---|
| 塩素 | 35Cl : 37Cl ≒ 3 : 1 | M+2がMのおよそ1/3 |
| 臭素 | 79Br : 81Br ≒ 1 : 1 | MとM+2がほぼ同じ高さ |
| 硫黄 | 34Sが約4% | M+2が数% |
| 炭素 | 13Cが約1.1% | M+1が炭素1個あたり約1.1% |
| C・H・N・O・F・P・I | 重い同位体がない、または微量 | M+2はほとんど出ない |
つまりM+2が目立つこと自体が、塩素・臭素・硫黄が入っているサインになります。塩素が2個なら M : M+2 : M+4 ≒ 9 : 6 : 1 と3本になり、個数まで読めます。
3 : 1や1 : 1はあくまで目安です。天然の同位体存在比は試料の由来によって変動するため、IUPACの表も単一の値ではなく範囲で与えられています(塩素なら35Clが75.5〜76.1%)。ピークの比を小数第2位まで信用するような読み方はできません。
EIでは、電子を1個はじき出すのに必要なエネルギー(多くの有機分子で10 eV前後)をはるかに超えるエネルギーが与えられます。余った分が結合を切り、断片のイオン——フラグメントイオン——を作ります。
どこが切れるかはでたらめではありません。生成するカチオンが安定なほど、その開裂は起こりやすい——判断の軸はカルボカチオンの安定性と同じです。
したがって、第三級カチオンになる位置、ベンジル位やアリル位、そして酸素や窒素の隣(α開裂)が切れやすくなります。ヘテロ原子の非共有電子対が正電荷を分担できるためで、これは共鳴による安定化の一例です。
m/z 151の分子イオンから起こる2通りの開裂。同じアミド結合が切れても、正電荷がどちらの断片に残るかで別のピークになる。図4の上段では、アミド結合が切れる際に水素が1個移り、ケテン(CH2=C=O、42)が中性分子として外れます。151 − 42 = 109、これが基準ピークの正体です。
下段は同じ結合の切れ方ですが、正電荷がアセチル側に残った場合です。生じるCH3CO+はアシリウムイオンと呼ばれ、酸素の非共有電子対が正電荷を分担できるので安定です。m/z 43のピークがこれにあたります。
同じ結合が切れても、電荷がどちらの断片に残るかで別のピークになります。スペクトルに現れるのはイオンだけで、相方の中性種は検出されません。「何が見えているか」と同時に「何が見えずに外れたか」を考えるのが、フラグメンテーションを読むコツです。
そのため実務では、ピークのm/zそのものより分子イオンとの差を見ます。よく出会う中性脱離をまとめておきます。
Δm | 外れた中性種 | 示唆される構造 |
|---|---|---|
| 15 | CH3ラジカル | メチル基 |
| 18 | H2O | アルコール |
| 28 | CO または C2H4 | フェノール・キノン類/エチル基 |
| 29 | CHOラジカル または C2H5ラジカル | アルデヒド/エチル基 |
| 31 | OCH3ラジカル | メチルエステル・メチルエーテル |
| 42 | CH2=C=O または C3H6 | アセチル基/プロピル基 |
| 43 | CH3COラジカル または C3H7ラジカル | メチルケトン/プロピル基 |
同じΔmが別の中性種に対応することがある点には注意が必要です。28はCOともC2H4とも読めますし、42もケテンとC3H6の両方がありえます。区別したい場合は、3-4節で見たとおり精密質量で判定します。
カルボニル化合物で特徴的な開裂として、McLafferty転位があります。
m/z 58のエノール型イオン。カルボニル基から数えてγ位に水素があると、六員環をなす配置を経てその水素がカルボニルの酸素へ移り、α炭素とβ炭素の間が切れます(2つが同時に起こるか、水素の移動が先かは議論があります)。外れるのは中性のアルケンで、イオン側にはエノール型のラジカルカチオンが残ります。
2-ヘキサノンならm/z 58、プロペン(42)が中性分子として外れた形です。
この転位はγ水素が無ければ起こりません。裏を返せば、メチルケトンでm/z 58のピークが出れば、「カルボニルのγ位に水素がある」証拠になります。ただし58はメチルケトンに限った値で(アルデヒドなら44、メチルエステルなら74)、アミンのα開裂など別の経路で58が出ることもあるため、分子式と合わせて判断します。McLaffertyが1959年に一般則としてまとめましたが、同じ水素移動は1954年にNicholsonがメチルケトンの研究で先に報告しています。
Q1. EIスペクトルで分子イオンがm/z 87に観測されました。この分子に窒素は何個含まれていると考えられますか。
A1. 奇数個、現実的な分子量から考えれば1個です。C・H・N・O・S・P・ハロゲンからなる分子では、公称質量の偶奇が窒素の個数の偶奇と結びついています。窒素だけが公称質量14(偶数)に対して結合の手が3本(奇数)で、他の元素と偶奇の対応がずれているためです。
Q2. MとM+2の高さがほぼ同じスペクトルが得られました。どの元素が含まれていると判断できますか。
A2. 臭素1個です。79Brと81Brの存在比がほぼ1 : 1のため、MとM+2が同じ高さで並びます。塩素1個なら約3 : 1で、M+2はMの1/3程度にしかなりません。
Q3. EIで測定したところ、分子イオンらしきピークが見当たりませんでした。次に何をすべきでしょうか。
A3. CIやESIのような穏やかなイオン化法で測り直します。EIは与えるエネルギーが大きく、分子イオンが残らないことがあるためです。ただしこれらでは[M+H]+として観測されるので、窒素則を使うときは水素1個分だけ偶奇が反転している点に注意してください。
質量分析がしていることは、突き詰めれば「分子の質量を測る」だけです。しかしそこに同位体の存在比と、壊れ方の規則性が重なることで、分子式と部分構造という2つの情報が引き出せます。IRで官能基、NMRで骨格、そして質量分析で分子式。3つが揃って初めて、構造は1つに決まります。