グリニャール反応では、炭素とマグネシウムの結合が分極していて、炭素が求核剤としてカルボニル炭素を攻撃しました。では、ブロモベンゼンにグリニャール試薬を混ぜれば、ベンゼン環に新しい炭素をつなげられるでしょうか。
実は、触媒なしで混ぜただけでは、ベンゼン環の炭素に新しい炭素はつながりません(理由は1-1節)。それでも現在の有機合成では、ハロゲン化アリールと有機金属化合物を、少量のパラジウム化合物を触媒にしてつなぐ反応が日常的に使われています。この反応をクロスカップリングと呼び、2010年のノーベル化学賞の対象になりました1。
この記事では、クロスカップリングが、パラジウムが0価と+2価を往復する「触媒サイクル」で進むことを、3つの段階(酸化的付加・トランスメタル化・還元的脱離)に分けて見ていきます。あわせて、パラジウムの形式酸化数の数え方と、最後の段階に2つの有機基のcis配置が要る理由を確かめ、鈴木–宮浦カップリングなどの名前の付いた反応がこのサイクルのどこで違うのかを整理します。
クロスカップリングは、有機ハロゲン化物(Ar–X)の炭素と、有機金属化合物(R–M)の炭素を、パラジウムなどの遷移金属の触媒で結ぶ反応です1。Xは臭素やヨウ素などのハロゲン、Mは亜鉛・ホウ素・スズなどです1。全体としては、Ar–XとR–MからAr–RとM–Xができます。
具体例を1つ見ます。N-(2-ブロモフェニル)アセトアミドのC–Br結合の炭素に、ホウ素化合物のビニル基をつなぐ反応です(図1)。テトラキス(トリフェニルホスフィン)パラジウム(0)(Pd(PPh3)4)を触媒に、炭酸カリウム水溶液とジメトキシエタン(DME)中で20時間加熱還流すると、2′-ビニルアセトアニリドが71%の収率で得られます2。
このように、クロスカップリングを使うと、ベンゼン環の炭素(sp2炭素)に別のsp2炭素を直接つなぐことができます。グリニャール反応のようにカルボニル基を足がかりにしなくても、炭素骨格を組み立てられるのが強みです。
ハロゲン化アリールは、ハロゲン化アルキルと違ってSN2反応を起こしません3。SN2では求核剤が脱離基の真裏から近づく必要がありますが、ベンゼン環の炭素の真裏は環の内側にあたり、求核剤は環の平面の中を通って近づかなければならないからです3。
つまり、ブロモベンゼンのC–Br結合は、求核剤を当てただけでは置き換わりません。クロスカップリングでは、まずパラジウムがC–Br結合の間に入り込み、そのあとで有機金属の炭素をパラジウムの上に呼び込んでつなぎます(2節)。パラジウムは、直接は反応しない2つの相手を仲立ちしているのです。
金属塩を加えてグリニャール試薬とハロゲン化物を反応させる試みは古くからありました。1941年にKharaschは、コバルト・ニッケル・鉄の塩を触媒量加えるとビアリールが高い収率でできることを報告しましたが、それはグリニャール試薬どうしが結合したもの(ホモカップリング)でした1。同じものどうしではなく、異なる2つの有機基を狙いどおりに結ぶのが「クロス」カップリングです。
ハロゲン化物の側には、ハロゲンの代わりにトリフラート(トリフルオロメタンスルホナート、Ar–OSO2CF3、Ar–OTfと略す)も使えます1。トリフラートは、求核置換反応でハロゲン化物よりも反応しやすい脱離基として知られるトシラート3と同じ、スルホン酸エステルの仲間です。この場合、Xの位置にOTfが入り、副生物はM–OTfになります。
有機金属の側を何にするかで、反応には人名が付いています。ホウ素を使う鈴木–宮浦カップリング、亜鉛の根岸カップリング、スズのStilleカップリング、マグネシウムの熊田カップリング、ケイ素の檜山カップリングなどです。5節で、これらが触媒サイクルのどこで違うかを整理します。
名前の似た「ジアゾカップリング(アゾカップリング)」は、クロスカップリングとは別の反応です。ジアゾニウムイオンがフェノールやアリールアミンのような活性化されたベンゼン環を攻撃する芳香族求電子置換反応で4、金属の触媒も触媒サイクルもありません。
クロスカップリングは、パラジウムが次の3段階を繰り返すことで進みます1(図2)。ここでは、パラジウムに付いているホスフィン(PPh3など)をまとめてLと書きます。
3段階を回り終えると、パラジウムは最初と同じ0価に戻り、次のAr–Xと反応できます。パラジウムが少量(図1の例では、臭化アリール46.6 mmolに対してPd(PPh3)4が0.9 mmol2)で済むのはこのためで、パラジウムは反応の前後で変わらない触媒として働きます。
図1の鈴木–宮浦カップリングでは、ホウ素化合物とともに塩基を加えます。2010年のノーベル化学賞の科学的解説では、塩基がホウ素化合物を陰イオン性のボロナートに変えて、ホウ素からパラジウムへの有機基の移動(トランスメタル化)を助けると説明されています1。
塩基がどう働くかについては、見解が分かれています。速度論の研究では、水酸化物イオンがパラジウムに付いた中間体(Pd–OH)をつくってトランスメタル化を促す一方、還元的脱離も速め、さらにボロン酸を陰イオン性のボロナートに変えると、かえってトランスメタル化が遅くなるという、3つの役割をもつことが報告されています5。別の研究では、弱い塩基と水を含む溶媒の条件では、トランスメタル化はPd–OHを経る経路で進むと結論され6、低温のNMRでは、ボロン酸型とボロナート型のどちらのPd–O–B中間体もアリール基を移すことが観測されています7。ボロナートを経る経路とPd–OHを経る経路のどちらが主かは条件によるので、この記事ではこれ以上は立ち入りません。
クロスカップリングのハロゲン化物の側には、ふつうハロゲン化アリールやハロゲン化ビニル(sp2炭素にハロゲンが付いたもの)が使われます1,8。ハロゲン化アルキルを使うクロスカップリングは、長いあいだ比較的まれでした8。
その原因として、ハロゲン化アルキルでは酸化的付加が遅いこと、そしてできたアルキルパラジウムがβ-水素脱離を起こしやすいことが挙げられています8。β-水素脱離とは、パラジウムが付いた炭素の隣(β位)の炭素の水素がパラジウムに移り、アルケンが外れる反応です(5-1節の溝呂木–ヘック反応では、この段階で新しいアルケンとH–Pd–Xができます1)。アルキル基がアルケンになって外れてしまえば、目的のカップリング生成物はできません。
ただし現在では、適切な触媒を選べば、第一級の臭化アルキルとアルキルホウ素化合物の鈴木–宮浦カップリングを室温で行える例も報告されています8。
一方、有機金属の側では、β位に水素をもつアルキル基を使った例もあります。たとえば根岸カップリングでは、β位に水素をもつアルキル亜鉛化合物を使った例があります1。この場合、アルキル基は遅い酸化的付加を経ずにトランスメタル化でパラジウムに入るので、ハロゲン化物の側とは事情が違うと考えられます。ただし、パラジウムに付いたアルキル基からβ-水素脱離が起こりうる点は同じなので、アルキル基を使う反応では触媒や条件を選ぶ必要があります。
クロスカップリングは「ハロゲン化物の側の炭素」と「有機金属の側の炭素」を、パラジウムの上に順に集めてから結ぶ反応です。酸化的付加でハロゲン化物の側が、トランスメタル化で有機金属の側がパラジウムに付き、還元的脱離で2つが結合して離れます。
酸化的付加・還元的脱離という名前は、パラジウムの酸化数が変わることから来ています。ここでは、触媒サイクルの各段階でパラジウムの酸化数を数えてみます。
IUPACは、酸化数を「異なる原子どうしの結合をイオン的に近似したときに、その原子に残る電荷」と定義しています9。結合の電子対は、電気陰性度の大きいほうの原子にすべて割り当てます(同じ原子どうしの結合は半分ずつ分けます)9。
この約束でAr–Pd(L)2–Xを数えると、次のようになります。
錯体全体は電荷をもたないので、陰イオン2つ分を打ち消すパラジウムの酸化数は+2になります(表1)。
| 錯体 | 陰イオンと数える配位子 | 中性と数える配位子 | Pdの酸化数 |
|---|---|---|---|
| PdLn | なし | L | 0 |
| Ar–Pd(L)2–X | Ar−、X− | L、L | +2 |
| Ar–Pd(L)2–R | Ar−、R− | L、L | +2 |
酸化的付加では、パラジウムの酸化数が0から+2に増えます。IUPACは酸化的付加を、金属錯体が共有結合の間に入り込み、形式的に1つの金属が全体で電子2個を失う(または2つの金属がそれぞれ1個ずつ失う)過程と定義しています10。クロスカップリングは前者の場合です。ノーベル化学賞の科学的解説も、この段階でパラジウムは「形式的に」Pd(0)からPd(II)に変わると書いています1。
トランスメタル化では、陰イオンと数えるX−がR−に入れ替わるだけなので、酸化数は+2のまま変わりません。還元的脱離では、ArとRが互いに結合して出ていくので、パラジウムは0価に戻ります。IUPACの定義では、還元的脱離は「酸化的付加の逆」です11。
酸化的付加で0→+2、トランスメタル化で+2のまま、還元的脱離で+2→0。パラジウムの酸化数は、1周のあいだに0と+2を1往復するだけです。
形式酸化数は、約束に従って数えた値です。Ar–Pd(L)2–Xのパラジウムに、実際に+2の電荷が乗っているわけではありません。ブロモニウムイオンの形式電荷とは数え方が違います(形式電荷は共有電子対を半分ずつ分けます)が、どちらも約束に従って電子の数を追うための道具です。
Pd(II)の錯体は、ふつう4つの配位子が正方形の頂点に並んだ平面四角形をとります12。4つの配位子のうち2つの関係には、隣り合う(間の角が90°)cisと、向かい合う(180°)transの2通りがあります。
還元的脱離は、同じパラジウムに付いた2つの有機基が互いに結合をつくる段階です。この段階は、2つの有機基がcisの位置にある錯体から起こることがよく確かめられています12(図3)。transの位置にある2つの基は、パラジウムを挟んで反対側にあり、そのままでは互いに結合をつくれません。
このことを示した古典的な実験が、1980年のGillieとStilleの研究です13。2つのメチル基と2つのホスフィンをもつパラジウム錯体では、cis体はジメチルスルホキシドなどの配位性の溶媒中でエタンを放出しました。trans体は、cis体に変われる場合には極性溶媒中で変わってからエタンを放出しましたが、2つのリンをtransの位置に固定する配位子(TRANSPHOS)をもつ錯体は、100 °Cでもエタンを放出しませんでした13。
実際の触媒サイクルでも、このcis・transが問題になります。単座のホスフィン(リン原子1つで配位するもの)を2つもつ錯体では、酸化的付加で最初にcis体ができ、それがより安定なtrans体に変わることがあります12。トランスメタル化を経た錯体がtrans体になった場合には、還元的脱離の前にcis体へ移る必要があります12(図2)。
実際の経路は、ここで描いたものより複雑なことがあります。たとえば、配位子が1つ外れた3配位の錯体を経て還元的脱離が起こると考えられる場合もあります。それでも、2つの有機基がcisの関係になってから結合ができる、という点は変わりません12。
反応が起こるために原子の並び方が決まっている点は、E2脱離のアンチペリプラナーの要請と似ています。E2では引き抜かれる水素と脱離基が反対側にそろう配置が有利でしたが、還元的脱離では逆に、結合する2つの基が隣り合う必要があります。
触媒サイクルの3段階のうち、最初の酸化的付加は、ハロゲン化物の側と0価の金属の反応なので、反応の名前が変わっても共通です(ノーベル化学賞の科学的解説も、根岸と鈴木のカップリングの第1段階は溝呂木–ヘック反応と同じだと書いています1)。違いが出るのは、トランスメタル化で有機基を渡す相手の種類です。熊田カップリングの初期の報告のように、パラジウムではなくニッケルを触媒にする反応もあります1。表2に代表的な反応をまとめます。
| 反応の名前 | 有機基を渡す側 | 触媒 |
|---|---|---|
| 熊田(玉尾–熊田)・Corriu1 | グリニャール試薬(R–MgX) | ニッケル |
| 根岸1 | 有機亜鉛(有機アルミニウム・有機ジルコニウムも) | パラジウム |
| Stille1 | 有機スズ | パラジウム |
| 鈴木–宮浦1 | 有機ホウ素(塩基を加える) | パラジウム |
| 檜山14 | 有機ケイ素(フッ化物イオン源のTASFを加える) | パラジウム |
| 薗頭15 | 末端アルキン(ヨウ化銅(I)とアミンを加える) | パラジウム |
グリニャール試薬はそのまま使えて便利ですが、反応性が高すぎて一部の官能基と共存できず、選択性も低いという弱点がありました1。亜鉛を使う根岸カップリングは、多くの官能基があっても使えるようになりました1。
スズを使うStilleカップリングも広く使われましたが、有機スズ化合物の毒性が工業での利用を限ってきました1。鈴木–宮浦カップリングで使う有機ホウ素試薬は、安定で求核性が穏やかなうえ、有機スズに比べて毒性の問題が小さいとされ、医薬品工業で広く使われるようになりました1。鈴木章は、北海道大学の名誉教授として2010年のノーベル化学賞を受けました1。
同じく2010年のノーベル化学賞を受けたHeckの名前の付いた溝呂木–ヘック反応は、有機金属を使いません。ハロゲン化物の側はクロスカップリングと同じで、酸化的付加でできたAr–Pd–Xにアルケンが入り込み(挿入)、新しいC–C結合ができます1。生成物は、2-1節で見たβ-水素脱離でパラジウムから外れます1。
1971年に溝呂木は、Heckと藤原の先行研究に触発されて、ヨードベンゼンがパラジウム触媒でアルケンにアリール基を付けることを報告しました1。Heckは1972年に、有機ハロゲン化物とPd(0)の酸化的付加から始まる形に反応を改良しました1。この記事では、両者の名前を並べて溝呂木–ヘック反応と呼びます。
Q1. 酸化的付加で生じる錯体Ar–Pd(L)2–Br(Lはホスフィン)のパラジウムの形式酸化数はいくつですか。この段階が「酸化的」と呼ばれるのはなぜですか。
A1. +2です。Pd–C結合とPd–Br結合の電子対は電気陰性度の大きい炭素と臭素に割り当てるので、ArとBrを陰イオン2つと数え、中性のホスフィン2つと合わせて錯体全体が中性になるには、パラジウムが+2でなければなりません。反応前のPd(0)から酸化数が2増える(形式的に電子2個を失う)ので、酸化的付加と呼ばれます。
Q2. トランスメタル化の直後に、ArとRがtransの位置に並んだPd(II)錯体ができたとします。この錯体からは、そのままではAr–Rができません。なぜですか。
A2. 還元的脱離は、同じパラジウムに付いた2つの有機基が互いに結合をつくる段階で、2つの基が隣り合うcisの位置にないと起こりません。transの位置ではArとRがパラジウムを挟んで反対側にあるので、いったんcis体に変わってから還元的脱離が起こります。
Q3. クロスカップリングのハロゲン化物の側には、ふつうハロゲン化アリールやハロゲン化ビニルが使われ、β位に水素をもつハロゲン化アルキルは長く使いにくいとされてきました。触媒サイクルのどこで、何が問題になると考えられていますか。
A3. 1つは最初の酸化的付加が遅いことです。もう1つは、酸化的付加でできたアルキルパラジウムが、β位の水素をパラジウムに移してアルケンとして外れる反応(β-水素脱離)を起こしやすく、目的のカップリング生成物ができる前に壊れてしまうことです。
クロスカップリングは、パラジウムが0価と+2価を往復しながら、ハロゲン化物の側の炭素を酸化的付加で、有機金属の側の炭素をトランスメタル化で自分の上に集め、最後に還元的脱離で2つを結んで離す反応です。最後の段階では2つの有機基が隣り合うcisの位置にあることが必要です。
鈴木–宮浦・根岸・Stille・熊田・檜山・薗頭といった名前の違いは、主にトランスメタル化で有機基を渡す側の違いです(熊田では触媒の金属もニッケルでした)。それぞれの反応の細かな条件や機構は、この3段階のサイクルを土台にすると読み解けます。