空気の約2割は酸素です。それでも、紙や砂糖、有機溶媒は、室温で空気に触れているだけで燃え出すことはありません。酸素と有機物が反応すれば大きな熱が出るはずなのに、なぜ反応しないのでしょうか。
一方で、有機物は空気中でまったく変化しないわけでもありません。実験室では、エーテルが保存中に爆発性の過酸化物をためることがよく知られていて、市販のテトラヒドロフラン(THF)の多くには、BHTという物質が酸化を防ぐために加えてあります。空気中の酸素は、ゆっくりとですが、確かに有機物を酸化しています。
この「始まりにくいのに、始まると進み続ける」酸化を自動酸化と呼びます。この記事では、まず酸素分子がふつうの分子とは違う電子の入り方をしていることを分子軌道で確かめます。そのうえで、自動酸化がラジカル連鎖反応として進む仕組みと、酸化防止剤が少量で連鎖を断ち切る理由、自動酸化を工業的に利用するクメン法までを扱います。
酸素分子を構造式で書くとO=Oになり、それぞれの酸素原子が非共有電子対を2つずつもちます。この書き方では、電子はすべて対になっています。
ところが、分子軌道で考えると様子が違います。酸素分子の電子を下の軌道から順に入れていくと、最後の2個はエネルギーの等しい2つのπ*軌道に入ります。電子は1個ずつ別の軌道に入り、スピンの向きがそろいます1(図1)。
スピンの向きがそろった不対電子を2つもつ状態は、三重項状態と呼ばれます(正確には、電子のスピン量子数の合計が1の状態2)。IUPACは、酸素分子のもっとも安定な状態(基底状態)が三重項であると明記しています3。つまり、ふだん空気中にある酸素分子は、不対電子を2つもつラジカル(ビラジカル)です。
不対電子を2つももつのに、酸素分子は有機物とすぐには反応しません。炭化水素と三重項の酸素分子の直接の反応は、ふつうきわめて遅いことが知られています4。
理由の1つはスピンです。ふつうの有機分子は電子がすべて対になった状態(一重項)なので、三重項の酸素分子と反応して、電子がすべて対になった生成物になるには、途中で電子1個のスピンの向きが変わる必要があります。このような反応は量子化学的に起こりにくいとされています4。
スピンの制約だけが理由ではありません。BordenやHoffmannらは、酸素分子が有機物から水素を引き抜く段階や、酸素分子どうしが結合する段階は、エネルギー的にも不利であることを示し、酸素分子が反応しにくい主な理由はこの熱力学的な不利(酸素分子そのものが大きく安定化されていること)だと論じています1。スピンの制約をどれほど重く見るかは、研究者によって異なります。
相手が炭素ラジカル(R•)なら事情が変わります。炭素ラジカルの不対電子と、酸素分子の不対電子の1つが対になって結合をつくり、ペルオキシルラジカル(ROO•)ができます。生成物にも不対電子が1つ残るので、スピンの向きを変える必要がありません。
実際、炭素ラジカルと酸素分子の反応の速度定数は、一般に109 M−1s−1程度です5。たとえばtert-ブチルラジカルでは4.9×109 M−1s−1(シクロヘキサン中、300 K)で5,6、分子どうしが溶液中で出会う速さ(拡散)でほぼ決まるほど速い反応です4。共鳴で安定化されたベンジルラジカルでも半分程度(2.4×109 M−1s−1)で、ほぼ同じくらい速く反応します5。
三重項の酸素分子は、電子が対になった分子とはほとんど反応しませんが、炭素ラジカルが1つできると、それをすぐに捕まえてペルオキシルラジカルに変えます。自動酸化が「始まりにくいのに、始まると進む」のは、この性質によります。
なお、酸素分子には、π*軌道の電子のスピンが対になった励起状態(一重項酸素)もあります3。この記事で扱うのは、空気中にある基底状態の三重項の酸素分子だけです。
自動酸化は、ハロゲン化と同じ開始・成長・停止の3段階で進む連鎖反応です4,7。基質をR–Hと書くと、次のようになります。
R•ができる。R•が酸素分子と結合して、ペルオキシルラジカルROO•になる(1-2節の速い反応)。ROO•が別の基質分子から水素を引き抜き、ヒドロペルオキシドROOHができる。同時に新しいR•が生じ、成長①に戻る。ROO•どうしが反応して、ラジカルでない生成物になる。R•が酸素分子と結合する、速い)と成長②(ROO•がR–Hから水素を引き抜く、遅い)を1周するごとに、ヒドロペルオキシドROOHが1分子でき、R•が再生する。右の出口は4節で扱う酸化防止剤(ArOH)による停止、下の破線はヒドロペルオキシドの分解で新しい連鎖が始まる経路。2つの成長段階のうち、成長①は1-2節で見たようにきわめて速く、成長②の水素の引き抜きは比較的遅い反応です5。そのため、酸素が十分にあれば、反応液の中のラジカルはほとんどがROO•の形で存在し4、連鎖が1周する速さと、どの水素が酸化されるか(3節)は成長②で決まります。全体の酸化の速さは、ラジカルが生まれる速さ(開始)や消える速さ(停止)にも左右されます。
連鎖でできるヒドロペルオキシドROOHは、O–O結合をもちます。O–O結合は弱く、たとえば(CH3)3CO–OHのO–O結合の結合解離エネルギーは約197 kJ/mol(47 kcal/mol)で8、C–H結合(約400 kJ/mol)の半分ほどしかありません。
そのため、ヒドロペルオキシドは少しずつ分解してラジカルを生じ(O–O結合が均一開裂してRO•と•OHになる経路のほか、周りの分子と反応して分解する経路もある)、新しい連鎖を始めます4。反応の生成物が次の反応の開始剤になるので、ヒドロペルオキシドがたまるほど酸化は速くなります。このように、反応が自分の生成物によって加速されることを自己触媒的と呼びます4。
自動酸化では、はじめのうちは酸素がほとんど消費されない期間(誘導期)があり、それを過ぎると反応が急に速くなることがよく観測されます4。
成長②でペルオキシルラジカルが水素を引き抜くと、C–H結合が切れてO–H結合ができます。この段階が発熱か吸熱かは、切れるC–H結合と、できるROO–H結合の強さの差で決まります(表1)。
| 結合 | どこの結合か | 結合解離エネルギー(kJ/mol) |
|---|---|---|
| H–CH2CH3 | 第一級のC–H(エタン) | 423.0 |
| H–C(CH3)3 | 第三級のC–H(2-メチルプロパン) | 403.8 |
| THFのα位のC–H | エーテルの酸素の隣 | 385.3 |
| H–CH2C6H5 | ベンジル位のC–H(トルエン) | 375.7 |
| H–CH2CH=CH2 | アリル位のC–H(プロペン) | 371.5 |
| CH3OO–H | ヒドロペルオキシドのO–H | 368.2 |
| (CH3)3COO–H | ヒドロペルオキシドのO–H | 351.5 |
ヒドロペルオキシドのO–H結合は約350〜370 kJ/molで8、ハロゲン化の記事で見たH–Br結合(366.3 kJ/mol)とほぼ同じ強さです。ふつうのアルキル基のC–H結合(400 kJ/mol以上)から水素を引き抜くと、大きな吸熱になります。一方、アリル位やベンジル位、エーテルの酸素の隣のように、もともとC–H結合が弱い位置なら、吸熱は小さくてすみます。
実際、ペルオキシルラジカルは弱いC–H結合の水素を優先して引き抜きます5。これは臭素原子と同じ傾向です。切れる結合が強く吸熱の大きい引き抜きほど遷移状態のエネルギーも高くなって遅くなる、というHammondの仮説の考え方が、ここでも使えます。
クメン(イソプロピルベンゼン)の中央の炭素の水素は、ベンジル位であり、しかも第三級です。ペルオキシルラジカルはこの水素を引き抜き、クメンヒドロペルオキシドと、新しいクミルラジカルができます(図3)。クミルラジカルは酸素分子と結合してクミルペルオキシルラジカルになり、次のクメンを攻撃します。
選択的とはいえ、この引き抜きは遅い反応です。クメンとペルオキシルラジカルの反応の速度定数は1 M−1s−1を下回る値が報告されていて9、成長①(約109 M−1s−1)とは比べものにならないほど遅いことが分かります。
エーテルの酸素の隣(α位)のC–H結合も弱く、THFのα位のC–H結合の結合解離エネルギーは約385 kJ/molです10。ふつうの第二級C–H結合(412.5 kJ/mol8)よりはっきり弱いので、ペルオキシルラジカルに狙われます。
ジエチルエーテルやTHFは、空気に触れたまま保存すると、自動酸化でヒドロペルオキシドなどの過酸化物をためていきます11。過酸化物の生成は熱・光・酸素によって加速され、特に紫外線(日光を含む)は自動酸化を促すと同時に、加えてある酸化防止剤を消耗させます11。
危険なのは、過酸化物が濃縮されるときです。安全指針の総説では、ジエチルエーテルとTHFは「濃縮すると過酸化物が危険になる」群に分類され、蒸留や蒸発の前には過酸化物を検査するよう求めています11。ジイソプロピルエーテルは、濃縮しなくても爆発するほどの過酸化物をためうる群に入っています11。
過酸化物を生じやすい溶媒の扱い方(検査の方法、保存期間、処分)は、使う試薬の安全データシートと所属機関の安全規則に従ってください。この記事は仕組みの説明で、取り扱いの手順を示すものではありません。
市販のTHFには、200〜400 ppmのBHT(2,6-ジ-tert-ブチル-4-メチルフェノール)が、酸化を防ぐために加えてある製品があります12。BHTは食品の酸化防止剤としても使われる物質で、p-クレゾールと2-メチルプロペンのフリーデル・クラフツアルキル化で作られます13。
BHTのようなフェノール類は、O–H結合の水素をペルオキシルラジカルに渡します7。ペルオキシルラジカルはヒドロペルオキシドになり、代わりにフェノキシルラジカル(ArO•)ができます(図4)。
ここで連鎖が止まるのは、できたフェノキシルラジカルが次の水素を引き抜かないからです。適切に置換されたフェノキシルラジカルは、周りの分子から水素を引き抜けないほど安定で、BHTでは2つのオルト位のtert-ブチル基が酸素を立体的に囲み、ほかの分子と反応しにくくしています7。不対電子が共鳴で環に広がることも、ベンジルラジカルと同じように安定化に効きます7。
フェノキシルラジカルは、そのあと2つ目のペルオキシルラジカルと反応して、ラジカルでない生成物になります。このため、理想的には1分子のフェノールが2個のペルオキシルラジカルを止めます7,14。
BHTとペルオキシルラジカルの反応の速度定数は1.4×104 M−1s−1と報告されています9。3-1節のクメンの値(1 M−1s−1未満)と比べると、1分子あたり数万倍速くペルオキシルラジカルと反応します。測定条件は完全には同じではありませんが、この差のおかげで、酸化防止剤は基質よりずっと少ない量でも、ペルオキシルラジカルを横取りできます。
連鎖反応では、1個のラジカルが止まらずに回ると、多数の基質分子が酸化されます。酸化防止剤1分子が連鎖を1本止めれば、その連鎖が酸化するはずだった多数の分子が守られます。少量で効くのはこのためです。
酸化防止剤は少量で効きますが、触媒ではありません。ペルオキシルラジカルを止めるたびに使われてなくなります。酸化防止剤が残っている間は酸化が抑えられ(誘導期)、その長さはラジカルが生まれる速さが同じなら加えた量に比例し14、使い切ると酸化が進み始めます。過酸化物が生じるにつれて酸化防止剤は消耗し、蒸留すると溶媒と酸化防止剤が分かれてしまうので、蒸留した溶媒は特に注意して保存する必要があります11。
生物がもつ代表的な酸化防止剤が、ビタミンE(α-トコフェロール)です。α-トコフェロールも同じフェノールのO–H結合で働き、ペルオキシルラジカルとの反応の速度定数は3.2×106 M−1s−1(クロロベンゼン中、30 °C)と14、BHTより2桁ほど大きい値です。これも1分子で2個のペルオキシルラジカルを止めます14。
自動酸化は防ぐだけのものではありません。高校の化学で、フェノールの製法としてクメン法を習った人もいるでしょう。クメン法は、3節で見たクメンの自動酸化をそのまま工業的に使う方法です。
クメン法はベンゼンとプロペンから出発し、クメンを作り、それをクメンヒドロペルオキシドに変えてから分解して、フェノールとアセトンを同時に得ます15(図5)。
クメンを空気と高温で反応させると、ベンジル位がラジカル機構で酸化されてクメンヒドロペルオキシドができます13。これは3-1節の連鎖そのものです。ベンゼン誘導体の自動酸化でできる過酸化物は、1944年にHockとLangが報告しています16。
クメンヒドロペルオキシドを酸で処理すると、末端のOHの酸素がプロトン化され、水が外れると同時にフェニル基が炭素から酸素へ移ります。できたカチオンに水が付加してヘミアセタールとなり、これが分解してフェノールとアセトンになります13。この段階はラジカル反応ではなく、カチオンを経る反応です。
クメン法は、現在の世界のフェノール生産のほぼ95%を担っているとされます15。1分子のクメンから、フェノールとアセトンが1分子ずつできるので、フェノールを作れば必ず同じ物質量のアセトンができます。
工業的な自動酸化は、選択性を保つために、ふつう原料の一部だけが反応した低い転化率で運転されます4。シクロヘキサンの空気酸化も、同じ自動酸化の連鎖で進む工業反応の例です4。
Q1. 酸素分子は不対電子を2つもつのに、有機物は室温の空気中ですぐには酸化されません。一方、炭素ラジカルが1つできると酸化が一気に進みます。それぞれ理由を説明してください。
A1. 酸素分子の基底状態は三重項で、ふつうの有機分子は電子がすべて対になった一重項です。両者が反応して電子が対になった生成物になるにはスピンの向きが変わる必要があることに加え、水素の引き抜きなど最初の段階がエネルギー的に不利なので、直接の反応はきわめて遅くなります(どちらを主な理由とみるかは研究者によって異なります)。炭素ラジカルは不対電子を1つもつので、酸素分子とスピンの制約なしに速く結合してペルオキシルラジカルになり、それが別の分子から水素を引き抜いて炭素ラジカルを再生するので、連鎖が続きます。
Q2. BHTはごく少量で酸化を防ぎます。BHTは「触媒」と呼べますか。使い続けるとどうなりますか。
A2. 呼べません。BHTはペルオキシルラジカルに水素を渡すたびにフェノキシルラジカルになり、2個目のペルオキシルラジカルと反応してラジカルでない生成物になるので、反応のたびに消費されます。少量で効くのは、ペルオキシルラジカルとの反応が基質より数万倍速く、1分子が連鎖を1本ずつ止めるからです。BHTを使い切ると誘導期が終わり、酸化が進み始めます。
Q3. 古いTHFを蒸留し、残りを乾固するまで濃縮してはいけないのはなぜですか。
A3. THFはα位のC–H結合が弱いので、保存中に自動酸化して過酸化物をためています。蒸留や蒸発で溶媒を除くと、過酸化物が残りに濃縮されて危険になります。また、加えてあったBHTも蒸留で溶媒から分かれます。そのため、蒸留や蒸発の前に過酸化物を検査することが求められています。
空気中の酸素分子は不対電子を2つもつ三重項で、電子が対になったふつうの分子とはほとんど反応しませんが、炭素ラジカルとはすぐに結合します。自動酸化は、そのペルオキシルラジカルが弱いC–H結合の水素を引き抜いてヒドロペルオキシドを作り、炭素ラジカルを再生する連鎖反応です。生成物のヒドロペルオキシドは分解して新しい連鎖を始めるので、反応は自ら加速します。
BHTやビタミンEのようなフェノール類は、ペルオキシルラジカルに水素を渡し、安定なフェノキシルラジカルになって連鎖を止めます。ペルオキシルラジカルの選択性は、ハロゲン化の記事で見た臭素原子と同じ考え方で読むことができ、同じ連鎖をうまく使えば、クメン法のようにフェノールとアセトンを作る工業反応にもなります。