分子間力の記事では、分子どうしを引きつける力を分散力・双極子–双極子相互作用・水素結合の3つに分けて、沸点や溶解度を予測しました。この記事では、その続きとして、芳香環どうしが引き合うπ–πスタッキングと、ハロゲン原子が非共有電子対と引き合うハロゲン結合を扱います。
どちらにも、よくある思い込みがあります。1つは「ベンゼン環どうしは、サンドイッチのように真上にぴったり重なる」というもので、もう1つは「電気陰性度の大きいハロゲン原子は負に帯電しているので、非共有電子対とは反発する」というものです。この記事では、分子の中の電子のかたよりを見ることで、2つの思い込みがどこで外れるかを確かめます。π–πスタッキングについては、教科書で定番の説明が、近年の計算による解析で見直されている途中であることも紹介します。
名前に同じ「π」が付いていても、π結合とπ–πスタッキングはまったく別のものです。π結合は、1つの分子の中で、隣り合う原子のp軌道が横向きに重なってできる共有結合です(混成軌道の記事)。エチレンのC=C結合の長さは133 pmで1、2つの炭素は電子対を共有しています。
π–πスタッキングは、別々の分子の芳香環どうしが、面を向かい合わせて引き合うことを指します。電子対を共有する結合ではなく、分子間力の一種です。ある研究で得られた、芳香族化合物とペルフルオロ芳香族化合物を組み合わせた5種類の結晶では、向かい合った環の面と面の間隔が337〜350 pmと報告されていて2、C=C結合の2倍以上離れています。
引き合いの強さも大きく違います。ベンゼン2分子が引き合うエネルギー(相互作用エネルギー)は、高い精度の計算で11〜12 kJ/molほどです3。ラジカルハロゲン化の記事で見た共有結合の結合解離エネルギーと比べると、ずっと小さな値です。
π結合は1つの分子の中の共有結合、π–πスタッキングは芳香環をもつ分子どうしの間に働く分子間力です。名前の「π」は、どちらもπ電子が関わることを表しているだけです。
ベンゼン2分子の組(ベンゼン二量体)の配置は、ふつう3つに分けて考えます。2つの環が真上に重なるサンドイッチ形、面を平行に保ったまま横にずれた平行ずれ形、片方の環の縁(C–H)がもう片方の面を指すT字形です4。
図1のように、ベンゼン二量体で最も安定になるのは、サンドイッチ形ではありません。高い精度の計算では、少し傾いたT字形の相互作用エネルギーが−11.84 kJ/mol、対称なT字形が−11.34 kJ/mol、平行ずれ形が−11.21 kJ/molで3、T字形と平行ずれ形がほぼ同じくらい安定です。
サンドイッチ形は、多くの二量体でエネルギーの谷(安定な構造)ではなく、峠(鞍点)にあたります4。少しでも横にずれると、エネルギーが下がるということです。芳香環が大きくなると、T字形より平行ずれ形のほうが有利になっていきます4。
「π–πスタッキング」は「積み重なり」という意味の名前ですが、芳香環が真上にぴったり重なっているとは限りません。ベンゼン二量体では、横にずれるかT字形になります。
ベンゼン二量体の構造は実験でも長く調べられてきましたが、測り方によって平行ずれ形とする結果とT字形とする結果があり、結合の強さの測定値も食い違っています3。上の数値は計算値です。
なぜサンドイッチ形にならないのかについて、教科書や解説で広く使われてきたのは、電荷のかたよりによる説明です。ベンゼンは対称な分子なので双極子モーメントをもちませんが、大きな四重極子モーメントをもちます2。
四重極子とは、正の部分と負の部分が対称に並んでいて、全体では双極子が打ち消し合っている電荷のかたよりのことです。ベンゼンでは、環の面の上下に広がるπ電子のところが負に、環の周りの水素のところが正にかたよっています。
この見方では、サンドイッチ形は負の面どうしが向かい合うので不利になります。T字形では、片方の環の正の縁(C–H)が、もう片方の環の負の面を指すので有利になります。ベンゼン二量体についても、T字形は四重極子どうしの静電的な引き合いで安定になる、と説明されます。同じ説明の中で、平行ずれ形は分散力が主になって安定になる、とされることもあります2。
この種の説明のもとになったのが、HunterとSandersが1990年に発表したモデルです。芳香環を「正に帯電したσ結合の骨格を、上下からπ電子雲がはさんだもの」とみなし、原子の位置の正電荷と、環の面の上下に置いた負電荷で表しました4。
このモデルから導かれた経験則には、「サンドイッチ形ではπ電子どうしの反発が大きく、平行ずれ形とT字形ではπ電子とσ骨格の引き合いが大きい」という、広く知られた見方が含まれています4。
「Hunter–Sandersモデル」という名前は、今では四重極子モーメントで説明する簡単なモデルを指して使われることが多いのですが、1990年の論文のモデルそのものは原子ごとの電荷にもとづくものです。負電荷を置く位置はベンゼンの四重極子モーメントの実験値に合うように決められていますが、モデルから導いた経験則には四重極子モーメントは出てきません。四重極子で説明する形は、2001年のHunterらの総説で使われ、それ以降に広まったものです4。
水素をすべてフッ素に置き換えたヘキサフルオロベンゼン(C6F6)では、電荷のかたよりの向きがベンゼンと逆になります。水素とフッ素の電気陰性度が大きく違うためです2。C–F結合の分極で電子が環の外側のフッ素に引かれ、環の面の上下が正に、周りのフッ素が負にかたよります(図2右、誘起効果の記事)。
1960年、PatrickとProsserは、ベンゼンとヘキサフルオロベンゼンを等量ずつ混ぜると、どちら単独の結晶よりも高い温度で融ける結晶ができることを見つけました2。気相の計算でも、ベンゼンとヘキサフルオロベンゼンの組の引き合いは、ベンゼン二量体の2倍以上と見積もられています2。
四重極子の見方では、符号が逆の環どうしは、面と面を向かい合わせると有利になります。Leeらは、炭素や水素の間の分散力が横にずれた形を有利にし、両方の兼ね合いで平行ずれ形の重なりになる、と説明しています2。
四重極子による説明は直感的で分かりやすいのですが、高い精度の計算とエネルギーを成分に分ける解析から、見直しが進んでいます。置換基の効果については2000年代から、四重極子による見方と合わない計算結果が報告されてきました(電子を与える置換基も引く置換基も、サンドイッチ形の二量体を安定にする、など)4。
2020年のCarter-FenkとHerbertの計算では、環どうしが390 pmより近い距離では、電子雲の重なり(電荷の浸透)のために、サンドイッチ形でも静電的な相互作用は全体として引き合う向きになることが示されました4。環の間隔を一定にして横にずらしても、静電的な相互作用はあまり変わりません。横にずれる原因は、静電的な反発ではなく、分散力と交換反発(電子の詰まった軌道どうしが重なるときの反発。パウリ反発とも呼ぶ)の兼ね合いだ、というのがその結論です4。
2025年のSchramm、Gray、Herbertの解析は、置換基やヘテロ原子をもつさまざまな芳香環の二量体でも、平行ずれ形をとる理由は主に分散力と交換反発の兼ね合い(「ファンデルワールスモデル」)で説明でき、四重極子による説明を支える証拠は見つからなかったとしています5。ただし同じ論文も、環どうしの最適な間隔や、極性のある環どうしの向きを説明するには静電的な相互作用が必要だと述べています5。
一方で、1990年のモデルそのものを正しく計算し直すと、T字形のベンゼン二量体などでは定性的に正しい予測を与える、という反論もあります。この反論は、モデルには誤った部分が多いものの、正しい部分もあるとまとめています4。エネルギーの谷に沿って成分を比べると、平行ずれ形で静電的な引き合いが最も大きくなる、という解析も報告されています4。
教科書で定番の「四重極子の静電相互作用がπ–πスタッキングの向きと安定性を決める」という説明は、近年の解析で疑問視されています。平行ずれ形は主に分散力と交換反発の兼ね合いで説明される、という主張があります5。ただし静電的な相互作用の役割をどう評価するかには反論もあり、π–πスタッキングの本質は現在も議論が続いています4。
この記事の立場は次のとおりです。四重極子の見方は、ベンゼンとヘキサフルオロベンゼンのように電荷のかたよりが逆の組み合わせを考えるときの手がかりになります。けれども、「芳香環が横にずれて重なるのは、π電子どうしが静電的に反発するから」と言い切ることはできません。
ハロゲン原子は電気陰性度が大きいので、ふつうは電子の多い部位と考えられています。実際、ハロゲン原子が水素結合の受け手(非共有電子対を出す側)になることは1920年代から知られていました6。
ところが、ハロゲン原子が1本の共有結合をつくっているとき、その周りの電子の分布は一様ではありません。結合と直交する方向には、ほとんどの場合、電子の多い負の帯ができます。一方、結合を延長した先には電子の少ない部分ができ、多くの場合、特に重いハロゲンでは正になります6。この正の部分をσホールと呼びます(σ結合の反対側にある電子の不足という意味です)6。
このσホールが、別の(または同じ)分子の非共有電子対などの電子の多い部位と引き合うのがハロゲン結合です。IUPACは2013年の勧告で、ハロゲン結合を「分子の中のハロゲン原子に伴う求電子的な部位と、別の(または同じ)分子の求核的な部位との間に、全体として引き合う相互作用があるという証拠があるときに生じる」ものと定義しました6。
ハロゲン結合をつくる力は、I>Br>Cl>Fの順に強くなります。σホールの正の度合いは、ハロゲンの分極しやすさが大きいほど強く、電気陰性度が大きいほど弱くなるためです6。
フッ素では、σホールはふつう負で(周りよりは負の度合いが小さいものの)、引き合うσホールの相互作用にはふだん関わりません6。分子間力の記事で見た分散力と同じく、大きく分極しやすいヨウ素ほど、ハロゲン結合をつくりやすいということです。
同じハロゲンでも、結合している相手が電子を強く引くほど、σホールはより正になります。ヨウ素の先端の静電ポテンシャルの最大値は、CH3–I<CF3–I<NC–Iの順に大きくなります6。ヨウ素などのハロゲンが付いたアルカンでも、炭化水素の鎖をすべてフッ素化すると、ハロゲン原子が電子を受け取る力(ルイス酸性)は大きく強まります6。
σホールは結合の延長線上の狭い範囲にできるので、ハロゲン結合には強い方向性があります6。結晶構造の統計では、ハロゲン原子に求核剤が近づく向きは、C–X結合とのなす角が160〜180°の範囲に集まり、求電子剤は90〜120°の横から近づきます6。
1954年、Hasselは臭素(Br2)と1,4-ジオキサンの付加物の結晶構造を調べ、Br–Br…Oがほぼ一直線(約180°)に並び、Br…Oの距離が両原子のファンデルワールス半径の和より短く、Br–Br結合が単独のBr2より少し長いことを見つけました。この3つの特徴は、ハロゲン結合に一般に見られるものです6。
図4のように、ヨウ素を2つもつ1,4-ジヨードテトラフルオロベンゼンと、窒素を2つもつ4,4′-ビピリジンを組み合わせると、ハロゲン結合で交互につながった鎖ができます6。ピリジンが受け手になるとき、C–X結合はピリジン環の面とほぼ同じ面にあり、C–N…Xの角はおよそ120°で、窒素の非共有電子対の向きに沿っています6。
ここまでの2つの相互作用を、分子間力の記事の水素結合と並べてみます。
| 相互作用 | 引き合う部位 | 特徴 |
|---|---|---|
| 水素結合 | 電気陰性度の大きい原子に結合したHと、O・Nなどの非共有電子対 | 正にかたよったHが非共有電子対と引き合う(分子間力の記事) |
| ハロゲン結合 | ハロゲン原子の先端のσホールと、非共有電子対など電子の多い部位 | C–X…Yがほぼ一直線(160〜180°)。I>Br>Cl>Fの順に強い(Fはふつうつくらない) |
| π–πスタッキング | 芳香環の面どうし | 平行にずれて重なる(ベンゼンではT字形も同じくらい安定)。分散力と交換反発の兼ね合いを重視する見方と、静電的な引き合いを重視する見方があり、議論中 |
水素結合とハロゲン結合は、どちらも「電子の少ない部位が、ほかの分子(または同じ分子の別の場所)の非共有電子対などと引き合う」という点で、手順が似ています。けれども、正の部位のでき方は違います。水素結合では電気陰性度の大きい原子に結合した水素が正にかたよるのに対し、ハロゲン結合では電気陰性度の大きいハロゲン原子そのものの、結合の延長線上の先端が(特に重いハロゲンで)正になります。
ハロゲン原子全体が正に帯電しているわけではありません。σホールの周りには負の帯があり、ハロゲン原子は横からは求電子剤と引き合います(図3)。どちらの向きから近づくかで、引き合う相手が入れ替わります。
ハロゲン結合をつくる化合物は、同じ形の水素結合をつくる化合物より、ほとんどの場合ずっと油になじみやすく(親油性が高く)、ハロゲン結合は「疎水的な水素結合」とも見られます6。たとえばヨードペンタフルオロベンゼンは水に溶けませんが、水素結合をつくるフェノールは水1 Lに66 g以上溶けます6。
Q1. π結合とπ–πスタッキングは、何が違いますか。
A1. π結合は、1つの分子の中で隣り合う原子のp軌道が横向きに重なってできる共有結合で、2つの原子が電子対を共有しています。π–πスタッキングは、別々の分子の芳香環どうしが面を向かい合わせて引き合う分子間力で、電子対は共有しません。環の間隔は結合の長さの2倍以上あり、引き合いのエネルギーも共有結合よりずっと小さくなります。
Q2. ベンゼン2分子で、面と面をぴったり重ねたサンドイッチ形が最も安定にならないのはなぜですか。
A2. 教科書では、ベンゼンの面の上下が負にかたよっている(四重極子)ので、サンドイッチ形では負の面どうしが向かい合って不利になる、と説明されてきました。近年の計算による解析では、横にずれる主な原因は、電子の詰まったπ軌道どうしが重なるときの交換反発と分散力の兼ね合いだという主張があり、静電的な相互作用の役割については議論が続いています。いずれにしても、ベンゼン二量体で安定なのはT字形と平行ずれ形で、サンドイッチ形は横にずれるとエネルギーが下がる形です。
Q3. ハロゲン原子は電気陰性度が大きいので、負にかたよっていると考えがちです。それなのに、C–I結合のヨウ素がピリジンの窒素の非共有電子対と引き合えるのはなぜですか。どの方向から近づくと引き合いますか。
A3. C–I結合をつくったヨウ素の電子の分布は一様ではなく、結合を延長した先端に電子の少ない正の部位(σホール)ができるからです。窒素の非共有電子対は、C–I結合のほぼ延長線上(C–I…Nがほぼ一直線)から近づくと引き合います。ヨウ素の横には負の帯があり、そちらからは求電子剤が近づきます。
Q4. フッ素を含む化合物は多いのに、フッ素がハロゲン結合をつくることはまれです。なぜですか。
A4. σホールの正の度合いは、ハロゲンが分極しやすいほど強く、電気陰性度が大きいほど弱くなります。電気陰性度が最も大きく、分極しにくいフッ素では、σホールはふつう負になるので、非共有電子対と引き合う相互作用にはふだん関わりません。
π–πスタッキングとハロゲン結合は、どちらも分子の中の電子の分布のかたよりを見ると理解しやすくなります。ベンゼン二量体はサンドイッチ形にはならず、T字形や平行ずれ形で引き合います。その理由としてよく使われる四重極子の説明は直感的ですが、分散力と交換反発を重視する見直しが進んでいて、静電的な相互作用の役割をめぐる議論は続いています。ハロゲン原子は、電気陰性度が大きくても、結合の延長線上の先端にσホールという電子の少ない部位をもち(重いハロゲンほど正になりやすい)、そこで非共有電子対とほぼ一直線に引き合います。
ハロゲン結合は、結晶の中の分子の並び方を設計する研究(結晶工学)から、生体分子の認識や薬の設計まで使われています6。芳香環どうしの相互作用も、有機エレクトロニクスの材料や医薬品の設計を支える考え方の1つです4。